投票という沈黙
「それじゃ、食べよっか。塩焼きから」
父・誠一が、箸でそっと切れ目の入った松茸を持ち上げる。
炭火ではなくフライパンだが、軽く焦げ目のついたその香りは、確かに「松茸」だった。
人工でも、山の香りはする——そう信じて彼は口に運んだ。
「……うん、香り、ちゃんとあるな。歯ごたえも松茸だ。これは正解」
「じゃあ次、ご飯いこっか。炊飯器で蒸らしたままにしておいたから」
母・佳奈が小鉢によそった「きのこご飯」は、落ち着いた色合いだった。
米にしみた出汁、キノコの旨み、ふんわりとした香りが、湯気とともに立ち上る。
「私はこっちのほうが好きかも。香りがやさしいっていうか……食事として自然」
優子は小さく頷き、無言でご飯をもう一口。
純は少し顔をしかめた。
「なんか……さっきの焼いたやつのほうが“松茸!”って感じだったな。これは味が混ざってる」
「じゃあ最後、吸い物」
すまし汁の中で松茸がひと切れ、三つ葉とともに浮かんでいた。
一口すすると、ふっと香る。
「……うーん。出汁の中に埋もれてる。これはもったいないかも」
「でも、これがいちばん“日本の秋”って感じじゃない?」
母は静かに言った。
「たぶん、昔食べたことがあるの。旅館で。
たしか、本物の松茸だったと思う。……すごく懐かしい香りがした」
誰も言い返さなかった。
“懐かしい”という記憶には、誰も勝てない。
「じゃあ、投票、いきましょうか」
父・誠一が手作りの投票用紙を配る。
「1位」「2位」「3位」を記入し、箱に入れる。
純は悩み、優子はすぐに書いた。佳奈は長くペンを止め、誠一は迷いなく記入した。
結果発表。
1位:塩焼き(2票)
2位:きのこご飯(2票)
3位:吸い物(0票)
「……票が割れたな」
「わたし、きのこご飯に1位入れた。塩焼きは香り強いけど、なんか“演出感”がある気がして」
優子が淡々と言う。
「僕は塩焼き。“松茸ってこれ!”って感じだった。インパクトあるし」
「私は……やっぱり、ご飯。日常の中で違和感がない“特別”って感じ。
逆に塩焼きは、“今から松茸です!”って主張されてる気がして、ちょっと身構えるのよね」
「俺はもちろん塩焼き。香りで選ぶなら、直火に限る」
話は終わったように見えた。
だがその夜、誰も「今度は天然のを食べたい」とは言わなかった。
誰も「しめじでもいいじゃん」とも言わなかった。
——それぞれが“正しい”と思っていた。
——でも、家族全員で“これが一番だね”と一致することはなかった。
夕食が終わり、テレビでは例の特番の再放送が始まっていた。
画面の中で、竹富キャスターが言う。
「香りは“正しさ”を持たない。
それぞれの記憶と好みの中で“本物”が変わる時代になったのです」
それを聞いていた石橋家の誰も、言葉を発しなかった。
食卓は、最も小さな社会。
だが、そこにもすでに境界線は引かれていた。
“松茸とは何か?”
それは、香りの問題ではなかったのかもしれない。
家庭という最小単位の中にさえ、香りの正解は存在しなかったのだ。
その翌日、優子は匿名のアカウントで、TikTokにこう投稿した。
「香りの好みで家族が割れた夜。
塩焼きが最強って信じてた父と、“懐かしさ”で吸い物を押す母。
わたしは、ただ自然に食べられるのが一番いいと思うだけ。
もしかして、これが“分断”の始まりなんじゃない?」
動画は静かに拡散され、「#きのこ家族会議」が生まれるきっかけとなった。
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