第12話:揺れる「絆」と、迫る「選択」

 朝、蓮見レンは自宅のベッドで目覚めた。昨日までの記憶がないことを自覚するが、今回は、体全体に微かなだるさと、胸の奥に言いようのない切なさが残っていた。それは、まるで誰かの悲しみが、彼の身体に染み付いているかのようだった。枕元には、咲良からのメモが置かれている。レンはそれを手に取り、じっと見つめた。「咲良」という名前が、レンの頭の中で、昨日見た「写真」の光景と結びつき、心臓がトクン、と不規則に鳴る。スマホで今日の予定を確認するルーティン。その手は、写真がもたらした衝撃のせいで微かに震えている。この記憶喪失の裏に、ただの事故ではない「何か」が隠されているという確信がレンの中に一層強まった。それは、まるで、自分の存在自体が、巨大な謎の一部であるかのような感覚だった。呼吸をするたびに、微かな焦げ臭い匂いが鼻腔の奥に残っているような気がした。窓の外からは、遠くで鳥のさえずりが聞こえるが、レンの耳には届かない。朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中に薄く光の帯を作っていた。その光の帯は、レンの胸に、言いようのない不安を募らせていた。


 通学路。レンの足は、無意識のうちに学園へと向かっている。朝の冷たい空気が頬を撫で、微かに湿った土の匂いがする。遠くで車の音がするが、それもすぐに遠ざかっていった。彼の意識は、学園のどこかに隠された「真実」に引き寄せられているようだ。学園の敷地に入った瞬間、彼の胸のざわつきが、昨日とは異なる種類の高鳴りに変わった。それは、まるで、何かが始まる予感のような、微かな興奮だった。校舎の壁には、微かな焦げ跡のようなものが残っているように見えた。それは、かつてこの場所で、何かが激しく燃え盛ったことを暗示しているかのようだった。レンの心臓が、ドクン、ドクン、と激しく鳴る。その鼓動は、レンの不安と、真実への期待が混じり合っているかのようだった。レンの視線は、無意識のうちに、担任のいる職員室の方向へと向かっていた。まるで、彼が、無意識に答えを求めているかのように。校庭では、すでに朝練の生徒たちの声が響いていた。彼らの声は、レンの心に、どこか遠い過去の残響のように聞こえた。


 教室に入ると、咲良は既に席に着いている。窓から差し込む朝日が、彼女の顔を照らし、その表情をわずかに明るく見せている。しかし、その瞳の奥には、拭い去れない疲労と悲しみが宿っていた。その目元には、隠しきれないほどのクマができており、昨夜もほとんど眠れていないことを物語っている。レンが席に着くのを確認すると、咲良はちらりとレンを見て、いつものように新しいメモを机に置いた。その所作は、尋常ではないほど完璧で、流れるようでありながら、どこか機械的な正確さも秘めている。今日の咲良の瞳には、レンの知らない感情が渦巻いているように見えた。それは、深い疲労と、途方もない悲しみの色だった。彼女の顔色は、昨日よりもさらに青白い。レンは、彼女がこの「ルーティン」をどれほどの覚悟と苦悩で続けているのか、よりはっきりと感じ取るようになっていた。その覚悟の重さに、レンの心もまた、重く沈む。教室の空気は、まるで二人の間にだけ、見えない重力が働いているかのようだった。他の生徒たちの賑やかな声も、レンには遠く聞こえた。机の上の、真新しい教科書のインクの匂いがした。


 午前中、担任教師がレンを呼び出した。職員室のドアが、重い音を立てて閉まる。古びたドアの蝶番が、ギー、と軋む音がした。レンの背後に、重くのしかかるような沈黙が広がる。担任の顔は、昨日よりもさらに深刻な表情をしていた。その眉間には深い皺が刻まれ、その瞳には疲労の色が濃い。その目は、レンの顔をじっと見つめ、何かを探っているかのようだった。担任は、レンが椅子に座るのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。彼の声は、普段の陽気さを失い、重々しい響きを帯びていた。机の上に置かれた担任のマグカップからは、湯気が静かに立ち上っていた。その湯気は、担任の疲労した顔を、ぼんやりと霞ませていた。


「蓮見…君の記憶喪失の件だ。実は、それは…」


 担任は言葉を区切り、深い沈黙が教室に降りる。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。その沈黙は、レンの心を締め付け、息苦しさを感じさせた。耳鳴りがする。その視線は、レンの顔と、教室の隅にある鍵のかかったロッカーの間を行き来している。ロッカーは、まるで、そこに何か重要なものが隠されていることを主張しているかのようだった。そのロッカーの表面には、微かに埃が積もっているのが見えた。担任は、一瞬、自分のネクタイを緩めるような仕草を見せた。それは、まるで彼自身が何か重い秘密に縛られ、息苦しさを感じているかのようだった。その表情は、苦悩と、何かを守ろうとする決意が混じり合っていた。担任の指先が、無意識に教卓の端をコツコツと叩く。その音は、まるで焦燥を隠しきれない担任の心の音のようだった。


「…それは、数年前の、ある任務の後遺症だと、我々は考えている」


 担任の言葉は、レンの頭の中に直接響いた。「任務」という聞き慣れない言葉。自分の記憶喪失が、事故や病気ではなく、何か目的を持った「任務」によって引き起こされたという事実に、レンは強い衝撃を受けた。まるで、自分の人生が、知らない誰かの手によって操られていたかのような、強烈な不快感だった。全身の血が、一瞬にして冷たくなったような感覚に襲われる。目の前が、一瞬だけ白く霞んだ。呼吸が、浅くなる。


「任務…? 何の任務だ? 俺は、一体何をしていたんだ…?」


 レンは思わず担任に食ってかかる。声には、焦燥と、真実への渇望が混じる。担任は、レンの問いに対し、苦しげに首を横に振った。その顔には、深い後悔のような感情がにじんでいる。その瞳には、レンには理解できない、しかし途方もない悲しみが宿っていた。まるで、彼が、過去に起こった悲劇の目撃者であるかのように。職員室の壁にかけられた古時計が、チクタクと音を立てていた。その音が、レンの心をさらに掻き乱した。


「それ以上は、私には話せない。しかし、君は…危険な状況に身を置いていた。そして、咲良さんも…その任務と深く関わっていたと聞いている」


 担任の視線が、再び咲良の方へ向けられる。咲良は、担任の言葉を聞きながらも、ただ静かにうつむいているだけだった。その肩が、微かに震えている。その震えは、レンの目には、咲良が抱える重い秘密の重さを示しているかのようだった。レンは、担任の言葉と咲良の反応から、彼らの間に、自分が知らない、しかし決定的な「過去」が存在することを確信する。その過去が、レンの記憶を蝕んでいる元凶なのだと。レンの心臓が、ドクン、ドクンと激しく鳴り響く。その鼓動は、レンの不安と、真実への期待が混じり合っているかのようだった。


 昼休み。レンは、担任の言葉が頭から離れないまま、中庭で一人座っていた。風が木々の葉を揺らし、カサカサと乾いた音を立てる。遠くから、他の生徒たちの笑い声が聞こえてくるが、レンにはそれがひどく遠いものに感じられた。自分の記憶喪失が「任務」によるものだという衝撃的な事実。そして、咲良がその任務と深く関わっていたという言葉。レンの心は、混乱と、真実への渇望で激しく揺れ動いていた。胸の奥に、言いようのない重苦しさが広がる。まるで、見えない鎖が、彼の胸を締め付けているかのようだった。空は、どこまでも高く、青かった。頭上を鳥が飛んでいくのが見えた。


 その時、レンの足元に、小さな紙片が舞い落ちた。風に煽られたそれは、一枚の古い写真だった。拾い上げると、そこに写っていたのは、見慣れない制服を着た自分と、咲良、そしてもう一人、顔の見えない人物が、肩を組んで笑っている姿だった。背景には、崩れかけた建物と、奇妙な機械が写っている。写真の中の咲良の視線は、わずかに写真の外、つまりレンのいる方向へと向けられているようにも見えた。レンの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。写真のインクは、時間の経過でわずかに色褪せていたが、写っている人物たちの表情は、はっきりと見て取れた。レンは、写真の中の自分の笑顔が、今の自分とはどこか違うことに気づいた。もっと、無邪気で、自信に満ちた笑顔。その笑顔に、レンは言いようのない違和感と、強い羨望を覚えた。


 その時、咲良がレンの隣にそっとやってきた。彼女は何も言わず、ただレンから少しだけ距離を取って座る。中庭の空気は、レンと咲良の間に、見えない壁を作っているかのようだった。その壁は、二人の間に横たわる、過去の深い溝を暗示している。レンは、咲良に問いかけたい衝動に駆られるが、言葉が出ない。沈黙が、二人の間に重くのしかかる。風だけが、優しく木々を揺らしていた。咲良の表情は、どこか諦めにも似た悲しみを湛えていた。その瞳は、レンの手に持つ写真に、一瞬だけ向けられた。


 「蓮見くん…」咲良が、意を決したように、しかし途切れ途切れに話し始める。その声は、微かに震えていた。彼女の指先が、スカートの裾をぎゅっと握りしめている。それは、まるで、自分の感情を必死に抑え込んでいるかのようだった。


「あの、私に、何か、聞きたいことが…あるなら…」


 レンは咲良の顔を見る。その瞳は、深い悲しみと、レンには理解できないほどの覚悟を宿している。その瞳の奥に、過去の痛みが、鮮明に浮かび上がっているように見えた。レンは、その瞳から、咲良がどれほどの重荷を一人で背負っているのかを感じ取った。彼女の顔色は、青白いままだ。


「お前は…その任務と、どう関わっていたんだ? そして、俺は…何をしていたんだ?」レンは、冷静を装いながらも、必死で尋ねた。その声は、レン自身も驚くほど、感情がこもっていた。手の中の写真は、レンの指に張り付くかのようだった。写真の縁が、微かに熱を帯びているように感じられた。


 咲良は、レンの問いに対し、一瞬、言葉に詰まる。彼女の唇が震え、瞳が潤む。まるで、その質問が、彼女の最も深い傷口に触れたかのようだった。その表情は、苦痛に歪んでいるかのようにも見えた。彼女の呼吸が、微かに乱れているのがレンにも分かった。その視線は、レンの顔から、遠くの空へと移った。青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。


「私…私には、まだ…話せない。ごめん…なさい」


 咲良の声は、絞り出すように細く、そして途切れた。彼女は、レンの視線から逃れるように、うつむいてしまう。その肩が、小刻みに震えている。レンは、咲良が話せない「何か」が、自分と彼女の間に存在する大きな「壁」であることを改めて感じる。それは、物理的な壁ではなく、二人の間に横たわる、過去の深い溝のようだった。その溝の深さに、レンは息をのんだ。彼には、咲良が泣いているように見えた。咲良の隣にいるのに、レンは途方もない距離を感じていた。中庭のベンチが、ひどく冷たく感じられた。レンの手の中の写真は、まるで熱を帯びたかのように、じんわりと温かくなっていた。写真の中の、見慣れない自分の笑顔が、レンの心に強く焼き付いた。


 放課後、レンは担任が話していた「古い鍵のかかったロッカー」が気になり、教室の隅に向かった。ロッカーは、他の生徒のロッカーよりも古びて見え、表面には確かに擦り傷のような跡がついていた。その傷跡は、まるで激しい戦闘の痕跡のように見えた。レンがその傷跡に触れると、指先に微かなざらつきを感じる。その時、頭の中で、またあの「声」と「閃光」が蘇る。今回は、それに加えて、何かが激しく削れるような音と、焦げ付くような匂いが加わっていた。まるで、このロッカーが、その「任務」の現場の一部であったかのように。レンの脳裏に、瓦礫と化した見慣れない部屋、そして倒れている誰かの姿が、一瞬だけ鮮明にフラッシュバックした。それは、レンの記憶にはないはずの、しかし強烈な現実感を伴う光景だった。その光景は、レンの心に、言いようのない恐怖と、そして抗えない真実への渇望を植え付けた。レンの心臓が、バクバクと激しく鳴り響く。その鼓動は、レンの全身に、まるで電流が走るかのように響き渡った。ロッカーの表面からは、微かに、冷たい金属の匂いがした。レンの手のひらから、汗が滴り落ちる。彼の額には、冷たい汗が滲んでいた。教室には、もう誰もいなかった。静寂が、レンの周囲を包み込む。窓の外は、すでに夕焼けに染まり始めていた。茜色の空が、レンの心に重くのしかかる。


 レンは、まだ知らない。そのロッカーの奥に、彼と咲良が共に過ごした、過酷な任務の真実が隠されていることを。そして、明日、彼は咲良の家で、その任務の「相棒」としての具体的な証拠を目にすることになる。その証拠が、レンの「世界」を、根底から覆すことを、まだ彼は知る由もなかった。夜空は、すでに深い藍色に染まり始めていた。窓の外からは、遠くでフクロウの鳴き声が聞こえる。レンの部屋の電気が、無機質に部屋を照らしていた。机の上に置かれた教科書が、レンの心には、ひどく重く感じられた。レンは、今日見つけた写真と、咲良からのメモを並べて見つめた。写真の、見慣れない制服を着た自分の姿が、レンに何かを語りかけているかのようだった。その笑顔の裏に、どんな真実が隠されているのか。レンは、その写真から、微かな希望と、そして途方もない不安を感じ取っていた。明日の朝、この写真が、彼に何をもたらすのか。レンは、来るべき朝に、静かに身を委ねた。静寂の中、写真の人物たちが、レンをじっと見つめ返しているかのようだった。レンは、自分の人生が、明日、根底から変わることを、まだ知らなかった。


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■ 次回予告

第13話:開かれる「箱」と、動き出す「運命」


レンの元に届いた、過去からの「荷物」。

そこに隠された「相棒」の証が、記憶の扉を叩く。

明らかになる、二人の「約束」の重み──。


次週、『リコレクト:君をもう一度、見つけるために』、お楽しみに。

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