第7話 ページの向こう側


 放課後、なんとなく帰りたくなかった。


 特に理由があるわけじゃない。ただ、教室を出た瞬間から、自分が“誰かに見られてる”ような気がして、それが妙に息苦しくて――気づけば、駅前の小さな本屋に足を運んでいた。


 ここは、昔からの馴染みの場所だ。流行りの雑誌よりも、少し古びた文庫や、埃の匂いのする棚のほうが落ち着く。そういう“静けさ”がある。


 今日も店の奥、ミステリーコーナーの端に立ち、指先で背表紙をなぞる。


 『夜の帳と透明な嘘』『月の裏に沈む声』『閉ざされた扉の向こう側』――


 どれも、静かで重たい物語。ひとりの時間にしか向き合えない、他人の心の奥を描くような話ばかり。


 そういうものに、いつからか惹かれるようになった。


 物語の登場人物たちは、たいてい何かを隠している。けれど、それを暴こうとする誰かがいるからこそ、物語は進んでいく。


 ――現実は、違う。誰かに踏み込まれた瞬間、すべてが壊れることもある。


 だからこそ、俺は物語の中でだけ、真実を見たいと思っていた。


  「……それ、面白いよ」


 聞き覚えのある声がして、思わず手が止まった。


 振り返ると――そこにいたのは、白河紬だった。 


 「……おまえ、なんで……」


 口に出してから、自分でもひどく間の抜けた質問だと思った。


 本屋に誰がいてもおかしくない。けど、よりによってこの場所で、彼女に会うなんて―― 


 「近くのカフェに行く前に、ちょっと寄っただけ。……偶然だよ」


  紬はそう言って、柔らかく笑った。制服の上にベージュのストールを巻いていて、ほんの少しだけ普段よりも“大人っぽく”見えた。

 


 「……その本、前に読んだことがあるの。犯人の動機、最後の3ページで急に明かされるやつ」


 「あー……なるほど。ちょうどそれ、手に取ってたところだった」


 遼は、少しだけ苦笑して、手にしていた文庫を棚に戻した。


 「ネタバレされたくなかったら、話しかけないほうがよかった?」


 「いや……驚いただけ。まさか、ここで会うとは思わなかったから」


 

 紬はそれを聞いて、少しだけ視線を逸らした。


 

 「……そう思われるの、慣れてる。でも、たまに“普通の偶然”があるだけなのに、それすら疑われるのは……ちょっと、寂しいよね」


 

 その言葉が、妙に胸に残った。


 まっすぐな瞳。何かを隠しているようで、でも時折、ほんの一瞬だけ“素の声”が漏れるような――そんな、危ういバランスの中で彼女は生きている。


 「……ごめん。疑ってたわけじゃない」 


 「うん、わかってる」 


 そう言って、紬は隣の棚から別の本を手に取った。

 『眠れぬ夜のための寓話集』というタイトル。


 「これ、持ってるの。おすすめ」


 そう言って本を差し出す。 


 「読む?」


 「……じゃあ、借りる。ちゃんと返すから」


 「ううん。あげるわ。二冊あるから」


  あっさりそう言われて、遼は一瞬、返す言葉を失った。

 


 「……なんで、俺に?」


  「佐原くんって、ちゃんと“読んでくれる”人だと思ったから」


 

 言葉に、曖昧さはなかった。


 彼女は何かを求めているわけじゃない。ただ、自然な流れの中で、手を差し伸べたように見えた。


 

 「ありがとう……大事にする」


 そう言ったとき、彼女は少しだけ顔を赤くした気がした。


 「ねえ……このあと、ちょっとだけ、歩かない?」


 

 その問いに、遼は少し迷った。


 また、誰かに見られるかもしれない。噂になるかもしれない。


 でも、それ以上に――この偶然を、偶然のままで終わらせたくなかった。

 


 「……いいよ」



 本を一冊、小脇に抱えながら、ふたりは本屋を後にした。


 夕暮れが、駅前の空を淡く染めていく。


 静かな放課後の、ほんの一瞬。


 それは、“偶然”と呼ぶには、少しだけ意味深すぎた。


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