第6話 無感情の街
その団地は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
響たちが到着したのは午後2時。通常なら、主婦たちの井戸端会議や、子供たちの遊ぶ声が聞こえるはずの時間帯。しかし、人の気配はあるのに、音がない。
「通報によると、3日前から住民の様子がおかしいそうです」
ルナが説明する。
「表情がなくなり、感情を示さない。まるでロボットのようだと」
響は共鳴探知機を起動させた。
そして、困惑した。
「Em値……ゼロ?」
これはあり得ない。生きている人間がいる場所で、感情エネルギーがゼロということは。
「故障か?」
霧島が別の探知機を試すが、結果は同じ。この団地には、感情エネルギーが存在しない。
三人は団地の中央広場に向かった。
そこには、住民たちがいた。
ベンチに座る老人、買い物袋を持つ主婦、自転車を押す子供。しかし全員、表情がない。目は開いているが、何も見ていない。
「すみません」
響が主婦に声をかけた。女性はゆっくりと振り向く。
「はい」
声に抑揚がない。機械的な返事。
「この団地で、何か変わったことは?」
「ありません」
「体調はいかがですか?」
「問題ありません」
会話は成立している。しかし、そこに感情は存在しない。
響はサイレンサーを外し、女性の感情を読み取ろうとした。
しかし、何も感じない。
いや、正確には「無」を感じる。感情があるべき場所に、ぽっかりと穴が開いている。
「防衛反応かもしれません」
ルナが仮説を立てた。
「強すぎる感情から身を守るため、集団で感情を遮断している可能性が」
しかし、それにしては不自然だ。防衛反応なら、多少の感情は残るはず。
響たちは団地を詳しく調査した。そして地下駐車場で、異常を発見した。
「これは……」
駐車場の壁一面に、螺旋模様が描かれていた。そして中央に、黒い球体のようなものが浮遊している。
共鳴探知機が激しく反応した。
「Em値15000!?」
とてつもない数値だった。しかも、これはマイナスの値。
負の感情エネルギーの塊。
「悲しみです」
ルナが震え声で言った。
「純粋な、圧倒的な悲しみの結晶」
響は慎重に近づいた。そして、その中に記憶を見た。
20年前のこの団地。
ある一家が住んでいた。父、母、そして5歳の娘。幸せな家族だった。
しかし、ある日。
精神を病んだ男が団地に侵入し、無差別に人を殺した。犠牲者は8名。
その中に、あの家族もいた。
最後に殺されたのは、5歳の娘。
彼女は最期まで、「どうして?」と問い続けた。
その純粋な悲しみと疑問が、この場所に刻印された。そして20年かけて成長し、巨大な悲しみの塊となった。
団地の住民たちは、この悲しみから逃れるため、感情を捨てた。
しかし、響は違和感を覚えた。
なぜ今? 20年も経って、なぜ突然?
その時、響の視界の端に、また彼女が現れた。
白いワンピースの女性。しかし今度は、5歳くらいの少女の姿をしていた。
少女は悲しそうに微笑み、黒い球体を指差した。
『これは、始まりに過ぎない』
幻聴か、それとも。
響が振り返ると、少女は消えていた。
「撤退しましょう」
霧島の判断は的確だった。この悲しみの塊は、通常の方法では除去できない。
しかし、団地を出ようとした時、住民たちが集まってきた。
無表情のまま、出口を塞ぐ。
「通してください」
霧島が言うが、住民たちは動かない。
そして、全員が同時に口を開いた。
『助けて』
無表情のまま、感情のない声で。
『私たちを、元に戻して』
響は理解した。彼らは感情を失ったのではない。感情を「奪われた」のだ。
そして奪った存在は――
「響!」
ルナの叫び声で振り返ると、地下駐車場から黒い霧が溢れ出していた。
悲しみの塊が、動き始めた。
それは団地全体を飲み込もうとしている。
響は決断した。共鳴能力を全開にし、悲しみを受け止める。
凄まじい悲しみが響を襲った。20年分の、純粋で圧倒的な悲しみ。
しかしその中に、響は真実を見た。
5歳の少女は、ただの犠牲者ではなかった。
彼女は、生まれながらのレベル6。
そして死の瞬間、その力が暴走し、自分の悲しみを永遠に残した。
まるで、誰かに見つけてもらうために。
響は悲しみを受け止めながら、少女に語りかけた。
「もう、大丈夫。あなたは一人じゃない」
すると、悲しみの質が変わった。
救いを求める悲しみから、安らぎへと。
黒い霧が薄れていく。住民たちの顔に、表情が戻ってきた。
しかし響は知っていた。
これは解決ではない。
なぜなら、少女の最後の言葉が脳裏に残っていたから。
『お姉ちゃんも、もうすぐ仲間になるよ』
お姉ちゃん。
それは響のことだろうか。
それとも――
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