第2話 笑い声の教室

 廃校の門をくぐると、響は立ち止まった。


 サイレンサーが微かに振動している。この場所に残る感情は、前回のマンションとは全く違う性質のものだ。絶望ではなく、もっと複雑で、捉えどころのない何か。


「ここが噂の廃校ですね」


 七海ルナがタブレットを見ながら言った。10年前に少子化で廃校になった小学校。しかし最近、近隣住民から奇妙な通報が相次いでいる。


 ――夜中に子供たちの笑い声が聞こえる。


「共鳴探知機の反応は?」


 霧島が尋ねると、響は機器を確認した。


「Em値2300。それほど高くはありませんが……妙です。波形が安定しない」


 三人は校舎に入った。埃っぽい廊下を進み、音楽室へ向かう。通報によると、笑い声は必ず音楽室から聞こえるという。


 音楽室のドアを開けると、まず目に入ったのは黒板だった。


 そこには子供の落書きが残されている。太陽、家、そして……螺旋模様。


「これは……」


 響が螺旋に近づいた時、突然、笑い声が響いた。


 キャハハハハ……


 子供たちの無邪気な笑い声。しかし響は、その中に別の感情を感じ取った。


「ルナ、この笑い声の『色』は?」


「黄色です。明るくて、楽しそうな……でも」


 ルナは眉をひそめた。


「なんだか、不自然です。まるで、同じ笑い声を何度もコピーしたみたいな」


 響は録音機を取り出した。霧島が首を傾げる。


「録音して、どうする?」


「EMPATHYに解析してもらいます」


 響は録音ボタンを押した。笑い声を30秒ほど録音し、再生する。


 すると――


『たすけて』


 全員が凍りついた。録音された音声は、笑い声ではなかった。子供の、必死な叫び声だった。


『たすけて、ここから出して』


「なんだ、これは……」


 霧島の顔が青ざめた。響はさらに解析を進める。


「EMPATHY、この音声の感情パターンを分析して」


『解析中……完了。検出された感情:恐怖87%、絶望9%、そして……』


「そして?」


『愛情4%』


 響は困惑した。恐怖と絶望に、なぜ愛情が混じっている?


 その時、ルナが叫んだ。


「響さん、見てください!」


 ルナが指差したのは、音楽室の隅にあるピアノだった。その上に、一枚の写真が置かれている。


 写真には、若い女性教師と、20人ほどの子供たちが写っていた。みんな笑顔で、幸せそうだ。


「裏に何か書いてあります」


 霧島が写真を裏返した。


『最後の音楽会 2011年3月10日 明日でお別れだね 山田先生より』


 2011年3月10日。東日本大震災の前日だ。


「まさか……」


 響は共鳴能力を開放し、この場所の記憶を読み取った。


 見えたのは、最後の音楽会の光景だった。


 山田先生は、子供たちと一緒に歌っていた。廃校が決まり、明日でみんなとお別れ。でも、笑顔で送り出そうと。


 そして翌日、震災が起きた。


 子供たちは無事だった。しかし山田先生は……


「違う」


 響は首を振った。


「山田先生の記録を調べました」


 ルナがタブレットを見せる。


「山田香織、当時26歳。2008年12月25日、交通事故で死亡」


 2008年。震災の3年前だ。


「じゃあ、この写真は……」


「存在しない記憶です」


 響は理解した。子供たちの「こうあってほしかった」という願いが、感情として残留し、偽りの記憶を作り出した。


 本当は、最後の音楽会などなかった。山田先生は、廃校を見ることなく死んでいた。


 でも子供たちは、大好きな先生と最後まで一緒にいたかった。


 その強い想いが、ありもしない笑い声を生み出していた。


「切ないですね」


 ルナがつぶやいた時、また笑い声が響いた。


 しかし今度は、違った。


 いくつもの笑い声が重なっているはずなのに、響にはすべて同じに聞こえる。


「ルナ、もう一度『色』を」


「はい……あっ」


 ルナの顔が青ざめた。


「この子供たちの笑い声の『色』……全部同じです。違う子供のはずなのに、感情の波長が完全に一致してます」


 響は嫌な予感がした。これは子供たちの感情ではない。


「EMPATHY、再解析。この感情パターンは人類のものか?」


 長い沈黙の後、EMPATHYが答えた。


『解析不能:この感情パターンは人類のものではありません』


 その瞬間、笑い声が止んだ。


 そして代わりに、別の声が聞こえてきた。


『見つかっちゃった』


 子供の声。しかし、どこか機械的で、感情がない。


『でも、いいの。もうすぐ、みんな一緒になれるから』


 黒板の螺旋模様が、ゆっくりと回転し始めた。


 響は時計を見た。11:11。


 また、この時間だ。


「撤退しましょう」


 霧島の判断は素早かった。三人は音楽室を後にし、廊下を走る。


 しかし出口にたどり着いた時、響は振り返った。


 校舎の窓という窓に、子供たちの顔が映っていた。全員、同じ顔。同じ表情。同じ笑顔。


 そして響は理解した。


 これは山田先生でも、子供たちでもない。もっと別の何かが、彼らの感情を利用している。


 まるで、感情を餌にする寄生体のように。


「響!」


 霧島の声で我に返った。響は校門を出て、振り返る。


 廃校は静かに佇んでいた。まるで何事もなかったかのように。


 しかし響の脳裏には、あの機械的な声が残っていた。


『もうすぐ、みんな一緒になれるから』


 それは予告なのか、それとも警告なのか。


 響は拳を握りしめた。母が死んだ時も、似たような言葉を聞いた気がする。


 みんな、一つになろう――


 車に乗り込みながら、響はルナに尋ねた。


「あの螺旋模様、前にも見たことある?」


「いえ、初めてです。でも……」


 ルナは考え込んだ。


「感情の『色』が螺旋を描いていました。まるで、何かを吸い込むブラックホールみたいに」


 響は息を呑んだ。


 感情を吸い込む螺旋。それは比喩ではなく、文字通りの意味かもしれない。


 そして響は、まだ気づいていなかった。


 車のバックミラーに映る廃校の屋上に、一人の女性が立っていることに。


 長い黒髪、白いワンピース。


 それは10年前に死んだはずの、響の母親にそっくりだった。

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