第11話『好きになってごめんなさい』
月光が音楽室の窓から差し込んでいた。放課後のピアノの音が、まだ空気に残っているような静寂。
「千夏先輩……」
楓は震える手でスマホを握りしめていた。画面には、吹奏楽部の先輩・千夏の写真。去年の定期演奏会で撮った、満面の笑顔。
楓は中学から吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。高校に入学して、パートリーダーの千夏に出会った。優しくて、面白くて、演奏も上手で——気がついたら、目で追うようになっていた。
でも、この気持ちは間違っている。
楓の家は厳格だった。父は地元の名士で、母は専業主婦。「普通」であることが当たり前の家庭。楓自身も、いつか結婚して、子供を産んで、母のようになるものだと思っていた。
なのに。
「消したい……この気持ちを」
涙がスマホの画面を濡らした。明日、千夏は卒業する。もう会えなくなる。でも、この気持ちを抱えたまま生きていくなんて——
「ゆびきりげんまん」
背後から声がした。振り返ると、古い制服を着た少女が立っていた。黒髪に赤いリボン、手には漆黒のノート。
「嘘ついたら」
楓は息を呑んだ。都市伝説で聞いたことがある。願いを叶えてくれる、ゆびきり屋。
「あなた……本当に?」
ゆびきり屋は微笑んだ。今夜の彼女は、どこか同情的でありながら、その瞳の奥は氷のように冷たかった。
「針千本飲〜ます」
歌うような声が、音楽室に響く。楓は立ち上がった。
「お願い……この気持ちを、無かったことにして」
「千夏さんへの恋心を?」
楓は頷いた。ゆびきり屋は漆黒のノートを開く。
「面白いわね。愛は人を苦しめる。特に、『許されない』と思い込んでいる愛はね」
「思い込みじゃない! これは……間違ってる」
「誰が決めたの?」
ゆびきり屋の問いに、楓は答えられなかった。父? 母? 世間? それとも——自分自身?
「いいわ。あなたの願い、叶えてあげる」
ゆびきり屋が小指を差し出した。楓は震えながら、自分の小指を絡める。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら——」
二人の声が重なる。楓の小指に、赤い糸のような跡が残った。
翌朝、楓は普通に目覚めた。卒業式の準備で忙しい一日が始まる。吹奏楽部も、卒業生を送る演奏をすることになっていた。
「楓、準備できた?」
部活の友達が声をかけてくる。楓は楽器ケースを持って、音楽室へ向かった。
そこには、袴姿の千夏がいた。
「あ、千夏先輩。おはようございます」
楓は普通に挨拶した。千夏も笑顔で返す。でも——何かがおかしい。
胸が、痛くない。
去年から、千夏を見るたびに感じていた、あの切ない痛みがない。ドキドキもしない。ただの先輩。ただの、卒業していく三年生。
「最後の演奏、頑張ってね」
千夏がそう言って、楓の肩を叩いた。その手の温もりを感じても、何も——何も感じない。
卒業式が終わった。千夏は他の卒業生と一緒に、校門から出ていく。楓は見送りながら、ぼんやりと考えていた。
昨日まで、何を悩んでいたんだっけ?
「楓ちゃん、大丈夫?」
友達が心配そうに覗き込んでくる。
「うん、大丈夫」
本当に大丈夫だった。何も感じない。千夏への特別な感情は、きれいさっぱり消えていた。
でも——
夜、楓は自室で宿題をしていた。数学の問題を解きながら、ふと手が止まる。
胸に、穴が空いているような感覚。
何かを失った気がする。でも、何を失ったのか分からない。思い出そうとしても、霧がかかったように曖昧で——
「あれ?」
楓は気づいた。机の上に、写真立てがある。去年の定期演奏会の集合写真。でも、そこに写っている先輩たちの顔を見ても、特に何も感じない。
なのに、なぜ写真立てに入れて飾っているんだろう?
スマホを開く。写真フォルダには、吹奏楽部の写真がたくさん入っていた。その中に、ある先輩の写真が妙に多い。
千夏先輩。
でも、なぜこんなにたくさん? 楓は首を傾げた。別に、特別な先輩じゃない。なのに——
LINEを開く。千夏とのトーク履歴があった。読み返してみる。
『今日の練習、お疲れ様! 楓ちゃんのクラリネット、すごく良くなってるよ』
『ありがとうございます! 千夏先輩みたいに吹けるようになりたいです』
『えー、照れる笑 でも嬉しい!』
普通の会話。先輩と後輩の、ありふれたやり取り。でも、自分の返信を読んでいて、違和感を覚える。
絵文字が多い。スタンプも、かわいいものばかり選んでいる。まるで——
「まるで、何?」
楓は自問した。答えは出ない。ただ、胸の穴が少しずつ大きくなっているような気がした。
翌日から、楓の日常は続いた。部活、勉強、友達との会話。何も変わらない毎日。
でも、時々ふとした瞬間に、胸が苦しくなる。
音楽室でクラリネットを吹いていると、なぜか涙が出そうになる。理由は分からない。
街で袴姿の女性を見かけると、立ち止まってしまう。なぜだか分からない。
女の子同士で手を繋いでいる姿を見ると、胸がざわつく。なぜだか——
「楓、最近変だよ?」
親友の美咲が心配してくれた。
「そう? 自分では分からないけど」
「なんか、心ここにあらずって感じ。恋でもしてるの?」
恋。
その言葉を聞いた瞬間、楓の胸に激痛が走った。
「違う! 私、恋なんて——」
「え、そんなに否定しなくても」
美咲が驚いている。楓も自分の反応に戸惑った。なぜ、こんなに強く否定したんだろう?
その夜、楓は眠れなかった。
胸の穴が、どんどん大きくなっている。何かを失った。大切な何かを。でも、それが何なのか思い出せない。
ふと、小指を見た。
赤い糸のような跡が、うっすらと残っている。
「これ、いつできたんだっけ……」
記憶を辿ろうとすると、頭が痛くなる。音楽室で、誰かと話した気がする。でも、誰と? 何を話した?
楓はベッドから起き上がり、日記を開いた。几帳面な性格で、毎日つけている日記。
3月14日——卒業式前日の日記を読む。
『明日で千夏先輩が卒業してしまう。寂しい。でも、この気持ちは』
そこで文章が途切れていた。次のページは、卒業式当日。
『卒業式だった。千夏先輩も卒業した。特に何も感じなかった』
楓は日記を読み返した。過去の日付を遡っていく。
『千夏先輩と一緒に練習した。すごく楽しかった』
『千夏先輩に褒められた! 嬉しすぎて眠れない』
『千夏先輩の演奏を聴いていると、胸が苦しくなる。これって』
過去の自分が書いた文章を読んでいて、楓は気づいた。
私、千夏先輩のことが——
でも、その先の感情が出てこない。好き、という言葉が、喉に引っかかって出てこない。代わりに、胸の穴がさらに広がった。
「あぁ……」
楓は理解した。自分が何を失ったのか。
愛する気持ち。
特定の誰かを特別に想う、あの感情。それを自ら望んで、消してしまった。
でも、感情は消えても、その感情があった事実は消えない。写真も、LINEも、日記も、全てが「かつてそこにあった愛」を示している。
楓は泣いた。何に対して泣いているのか、自分でも分からないまま。
失った愛の大きさだけが、穴となって残っている。その穴は、もう二度と埋まることはない。
「好きだった」
その言葉すら、もう言えない。好きという感情が何なのか、もう分からないから。
楓の部屋に、春の月光が差し込んでいた。窓の外で、桜の花びらが舞っている。
どこかで、ゆびきり屋が歌っていた。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら、針千本飲〜ます。指切った」
楓の名前が、漆黒のノートに刻まれる。
「愛を消した少女は、永遠に愛の形をした穴を抱えて生きる。それが、あなたの選んだ道」
ゆびきり屋の声は、同情と冷酷さが入り混じっていた。
「でもね、楓さん。あなたは知らないでしょうけど——千夏さんも、あなたのことを」
でも、その言葉は楓には届かない。
もう、愛が何なのか分からない少女には。
月夜は静かに更けていく。楓はベッドで泣き続けた。理由の分からない涙を、朝まで流し続けた。
胸の穴は、これからもずっと、楓を苦しめ続けるだろう。
愛することの苦しみからは逃れられた。
でも、愛せないことの苦しみが、新たに始まったのだ。
「こうして、今日も名前が増えました。愛を恐れた臆病者の名前が——ブラックリストに」
春の夜に、ゆびきり屋の嘲笑が響いた。
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