花が咲く、君が泣く

白井

第1話


「おれをころしてくれ」

 そう云ったら、

「ころしてやるものか」

 彼はそう云って鼻で笑った。


 

 

 一章

 

「ちょっと、待ってよさっきの女何よ」

 唐突に背後から腕を引かれて足を止める。

「……誰、お前」

「な……っ、誰って、三日前に社交喫茶で……」

 そこまで云われてあぁ、と顎先を上げる。

「さっきの女、貴方にあんなに枝垂れかかって……っ何なのよっ」   

「何って、お前と同じだけど?」 

「あたしと同じって……」 

「一晩寝たら終わりって意味」

 ここまで云わないと判らない?

 眇めた目で斜め下の頭を見下ろしたら、三日前に寝た女はわなわなと唇を震わせた。

「酷い! 好きって云った癖に!」 

 ヒステリックな声に耳を塞ぎたくなる。

「三日前のお前のことは確かに好きだったかも知れない」

 でもそれは三日前の話で、今の俺はもうお前のことは覚えてなかった。 

「もうお前に用ないから」

 じゃあと背を向け早足にその場を立ち去る。

 さっき寝た女の香水の匂いがキツくて早く落としたかったからだ。

「恨んでやるから……!」

「どーぞお好きに」

 女に聞こえない声量で呟いて、俺は肩を揺らしながら帰路を辿った。

 大体、社交喫茶なんて場所で出会って勝手に惚れてくるのが悪い。

 女は娼婦ばかりの中に混じって男と酒を飲むんだから、そこからの交わりには刹那の関係しかないことを承知していて欲しいものだ。


「相変わらず放蕩三昧とは呆れたな」 

 家に帰るなり玄関口に立っていた祖父に睨まれチッと口の中で舌を打つ。

「春宮家の跡取りとしての自覚はないのか」

「それは早逝した父上に仰って頂きたいですね」

 目の前に居るのは父方の祖父。

 俺の父親は俺が物心つく前に死んだらしい。何でかは知らない。興味もない。

 ただ、父親は一人息子だったから、後の春宮家の跡取りだった筈で。だからそのお鉢が俺に回ってきているという至極迷惑な話。

「あらぬ噂を立てられるような真似は止せ」

 そんなに女の匂いをさせおって、恥を知れと罵られる。

「あらぬ噂を信じる人間が愚かなんですよ」

 いけしゃあしゃあ。これは先程道で困っていたお嬢さんのものですとしらばっくれる。

 本当のところ密やかに囁かれている噂ーー俺が女を取っ替え引っ替えしているというものだーーは事実だけれども。この老年を黙らせるにはこれくらいの嘘だって吐かなければやっていられない。

「とにかく、お前ももう十八だ。結婚したって早くない」

「俺はまだ半人前ですよ。家庭を持つ甲斐性などありません」

「つべこべ云うな。当主である私に逆らえる立場だと思っているのか」

 嗚呼鬱陶しい。

 好きで跡取りなどになった訳ではないのに。

 父が早逝しなければ弟の一人や二人作ってもらって俺は家督をさっさと譲ってやったものを。

「婚約者を決めた」

「だから俺は、」 

「育てられた恩はないのか」 

 それを持ち出すのは狡い。

 別に育ててくれと頼んだ訳ではないのに。

 勝手に次期当主として育てておいて何が恩だ。

 それこそ恩着せがましいとしか云いようがない。

「由緒正しい武家華族の令嬢だ。代々女は看護に携わっている。春宮家の嫁としては申し分ない」 

 嗚呼ゞゞそうですか。それはそれは大層なことで。 

 大きな溜息と共に肩を竦める。

 まぁ俺の女癖の悪さを知れば向こうから勝手に身を引くだろう。

 そう思いながら靴を脱いで板の間に足を乗せる。

「写真は」

 好みでなければすぐに捨ててやろう。そんな算段で祖父が先行く足跡を緩慢に追った。

「この方だ」

 アフォガニーの広い机に広げられた見合い写真。

 赤い振袖を纏った少女は十四、五か。ぱっちりとした目の愛くるしい顔をした女だった。

 普段相手にしている女とは随分と毛色が違う。

 如何にも純粋そうな少女を見て、俺の第一印象は面倒臭そうだな、の一言。

 純粋な女程面倒臭いものはない。

 場末の女の方が一夜限りの関係を承知していて気が楽だ。

 ……さっきの女は少し勝手が違ったが。

 しかし……。この写真の女は少しだけ俺の気を惹いた。

 普段は選ぶことのない小動物のような顔は実際には割と好みで。

 結い上げた髪の毛が大袈裟な所為もあるかも知れないが、顔は小さく首は細く長い。色白で、振袖を着ていても華奢だと想像出来る身体付きはまだ幼いからだろうか?

 屈託のない笑みは俺の胸を揺らがせた。

 つぶらな……だけど芯の強さを感じさせる瞳が真っ直ぐに俺を見詰めてくる。 

 込み上げたのは、征服欲か。

「良いでしょう。正式にお受けします」

「ふん、最初からそう頷いていれば良かったのだ」 

 両開きだった写真の台紙を閉じて、祖父は二日後の昼だとだけ云い、俺に背を向ける。

「畏まりました」 

 慇懃無礼に会釈をして、俺は祖父の部屋を出た。

 風呂に入って女の香りを洗い流し、ベッドに横になる。

 俺の名は春宮貴裕。先の通り、年は十八を迎える。

 両親は居ない。父は物心つく前に。母は俺が十一の時に亡くなった。

 故に母親が亡くなってから俺を育ててくれたのは父方の祖父母。

 春宮家は公家華族の中でも上流階級で、祖父は実業家。

 祖父は厳しいが、祖母は俺に甘く、金を強請れば祖父に内緒で少しずつでも小遣いをくれた。

 だから俺は放蕩三昧をしていても金に困ることはない。

 ついでに自分で云うのも何だが顔の偏差値も程々悪くない。

 十二と半分の時から覚えた女遊びは年々エスカレートしていて、遊び仲間の中ではここ数年きっての漁色家と揶揄される程。

 まぁ、その渾名も嫌いではないが。

「婚約者、ねぇ……」  

 そんなもので俺を縛れるとでも思っているのか。

 俺は家を継ぐことなんてこれっぽっちも考えていない。

 あぁでもあれか。婚約者と一子でも作って仕舞えばそちらに家督を譲るというのも手かも知れない。

 早逝した父のようにふらりと消えて仕舞えば祖父もそのようにするしかあるまい。

「悪い案じゃ、ないかな」

 くすくすと肩を揺らして、俺は布団に潜るとそのまま眠りの淵に立った。

 翌二日後。形式ばかりの見合いが行われた。

 堅っ苦しい紋付袴に着替えさせられ、連れて行かれた料亭の一室には既にくだんの女。

 纏わり付くような香水を付けていない女と対峙するのはいつ振りか。

 清楚な香りのする女は矢張り少女と形容するに相応しい。

 しずしずと腰を落とし、食事をしながら仲人の伯母が振る話に答えていく。

 すゞ音と名乗った少女は名前に相応しく鈴の音のような声で喋った。

 耳障りではない。

 どちらかというと、風鈴の音を聞いているような、どこか心の落ち着く声音だった。

「後はお若い方同士で……」 

 その声で大人たちが部屋から出て行く。

 俺とすゞ音は暫く黙ったまま茶を啜り……先に口を開いたのはすゞ音の方だった。

「少し、お外に出ませんか?」

 断る理由もなく、縁側に用意されていた下駄を履き、肩を並べて庭園を歩く。

 頭ひとつ違う背丈。視線を下に遣ればすゞ音の大きく開いた頸が見えて、我知らず唾を飲む。

「貴裕さんは、わたしなどでい良いのでしょうか?」

「など、とは?」 

 猫を幾重にも被って問う。

「わたしのような小娘で、本当に良いのか、と」

 ほう、どうやら分別はあるようだ。賢い女は嫌いじゃない。

「逆に訊きましょうか。貴女は本当に俺で良いのか、と」

 見上げてくる大きな目を真っ直ぐに見詰めれば、彼女は年に似つかわしくない一笑の後、良いも悪いもありませんと小さな池に視線を遣った。

「女は道具と変わりありません」 

 その言葉は余りにも小さ過ぎて、俺の鼓膜を打つまでに至らなかった。

「写真を拝見して、素敵な方だなと思いました」 

「はは、いつの写真だろうね」

 ここ最近写真を撮られた記憶はない。少なくとも、一、二年前。

「今よりもう少し幼く見えましたね」 

 だから、今日お会いして、その端正なお顔立ちに少しだけびっくりしてしまいました、と小さく笑うすゞ音。

「なぁすゞ音?」 

 躊躇いもなく呼び捨てる。

「何でしょう、貴裕さん?」

 それに違和を覚える女ではないらしい。

「俺はそんなに良い男じゃないよ」 

「それは貴方の主観であり、わたしにとって貴裕さんが良い方か悪い方かを決めるのはわたしです」

 ふぅん、中々芯のある女じゃないか。

「このお話は、好きだ、とか。嫌い、だとか。そういった感情の定める関係ではないとわたしは思っています」

「つまり?」 

「生意気に聞こえるかも知れませんが、今のわたしは道具も同然です」

 成る程、理解の良い女だ。

「ですから、貴方に愛情というものを感じるのはこの先わたしたちの関わり方によると思っています」

「そう……」

 じゃあ、とすゞ音の顎を捉えて唇を重ねる。

「少しずつお互いを知って行かないとね」

 にこりと微笑んだら、すゞ音は頬を林檎色に染めて俯いた。

 そうして縁談は決まり、俺とすゞ音の住まいは春宮家の離れに構えることになった。

 盛大に行われた結婚式の晩、俺は早速すゞ音を抱いた。

 予想通り処女だったすゞ音はしかし抵抗も弱く俺を受け入れ、情事の後、彼女は俺に寄り添うようにぴたりと肌をくっつけてきた。

「交わるというのはこういうことなのですね……」

「そうだよ。幻滅した?」

「いいえ。ただ、」 

「……ただ?」 

「何でもありません。すゞ音は眠くなってしまいました……このまま休んでも良いでしょうか?」

「……あぁ、疲れただろうし寝れば良いよ」

 こんな優しい台詞が自分の口から飛び出るなんて嘘のようだ。

 どうしてだろう。すゞ音には、少しだけ。ほんの少しだけ、他の女より大切に扱ってやりたいと思った。

 

 ✳︎〜✳︎〜✳︎

 

「ねぇおにいさま、わたしは大きくなったらおにいさまのおよめさんになるわ!」 

「っはは、そんなことを云って、どうせ大きくなったらもっと良い男を見付けてお嫁に行くんだ」

「そんなことないわ! わたしにとっての王子様はーーおにいさまだけだもの!」

「絵本の見過ぎだよーー。俺より良い男はたくさん居る。それに俺たちは……」

 明るい金茶色が風に揺れ、その先の言葉も風に乗って彼方へと飛んで行ってしまった。

 

 ✳︎〜✳︎〜✳︎

 

「おはようすゞ音」

 すゞ音と婚姻の契りを結んでから一ヶ月。俺はよくまあ飽きもせずすゞ音との生活を送っていた。

「おはようございます貴裕さん」 

 今朝食を並べますから少しお待ち下さいね。

 そう云いながら卓に小鉢を並べていくすゞ音。 

「すゞ音、何か良いことでもあった?」

「え、どうしてですか?」

「いつもに増して笑顔が明るい」

 トントンと自分の頬を人差し指で叩いて見せたら、すゞ音はお盆で顔の下半分を隠した。

「……きっと、貴裕さんの顔を毎日見られることが嬉しくなってきたんです」 

 ふふ、と吐息を揺らしたすゞ音を、俺は席を立ち抱き竦めると荒っぽく口付けた。

 女遊びを辞めて、一応在籍していた高等学校にそこそこ真面目に通い、祖父から帝王学を学んで。一見マトモになったような俺だったけれど、結局そんな堅苦しい生活にはそう馴染めるものではなかった。

 正直に云って、勉強にもすゞ音の相手にも飽きたのだ。大切にしたい、だなんてとんだまやかし。

 三ヶ月もしたら独学で学びますと祖父からの教えを断ち切り、高等学校にも留年しない程度に顔を出して、半年後にはそれまで仲の良かった友人たちの輪に再び溶け込んだ。

「結婚なんて馬鹿なことして遂に漁色家も血迷ったかなんて噂してたんだぜ」

「冗談。実際結婚なんて馬鹿馬鹿しいよ。一人の女に縛られてるなんて苦痛でしかない」

「ま、結局大実業家に生まれた春宮は俺らと同類ってことで」

「好きであの家で育った訳じゃねーし」 

「んじゃ、ま、景気付けにいっちょ女漁りに行きますか」

 悪友の声に賛成の意が重なり、俺たちは夕方から社交喫茶に足を運んだ。

 久々に踏み込んだ社交喫茶のアンダーグラウンドな空気が心地好い。

 やっぱり俺は清楚で一途な女をただ一人相手にしているよりも、尻の軽い娼婦を相手にする方が余程性に合っているようだ。

 日増しすゞ音が俺のことを本気で好いてきていることには気付いていた。

 だから余計に面倒臭くなった。

 惚れられるのは構わないが、 縛られるのは性分ではないのだ。

 社交喫茶に入ったら後は自由行動が俺らの暗黙の了解。

 酒を舐めつつフロアを見回していたら、ふと目に入ったのは間接照明に照らされて蜂蜜色に煌めく金茶髪。

 珍しい。欧米人とのハーフか何かだろうか?

 こちらに背を向けている為顔は見えないが、羽織っているのは男物のジャケット。

 遠目から見てもやや遠慮がちな仕草に、慣れていないのかななどとどうでも良いことを思う。

「ホント、どうでも良いな……」

 俺が興味あるのは女だけだ。

 一夜を楽しませてくれるだけの女。

 少しして、隣に女が滑り込んできた。

「ね、お兄さん、独りぼっちで寂しくないの?」 

「ん? 今君が来てくれたから寂しくなくなった」

 甘い台詞がよくもまぁこんなにペラペラと口から零れてくるものだ。

「二枚でどーお?」

「そんなに満足させられないと思うから一枚にしてよ」

 枚数の意味など今更説明する必要もないだろう。

「じゃあ、一枚と半分」

「半分の半分」

 値段交渉は俺の勝ち。

 俺は残っていた酒を飲み干して女の腰に腕を回して社交喫茶を出た。

 耳障りな嬌声。

 纏わり付く粘膜。

 滴る汗と迸る熱。

 荒々しく女を抱いて、久々に満たされた気がした。

 どうしてか、すゞ音にはそう出来なかったから。

「満足させらんないなんて、嘘ばっか」 

「そう?」 

「こんなに悦い思いが出来るんだったら今度は一枚にしてあげる」  

 首に絡みつく腕を素気無く解いて床に散らかした抜け殻を拾った。

「また会えたらね」  

「探すわ」 

「追われるより追う方が好きなんだ」

「案外冷たいのね」

「俺に限ったことじゃないだろ?」     

 くつくつと喉を鳴らしたら、女は「まぁね」と長い髪を掻き上げた。

 じゃあな、とも云わずに外へ出て服の袖に鼻を寄せる。

「くっさ……」     

 甘ったるい香水の匂いが染み付いている。

 こんなシャツを着て帰ったら、すゞ音はどんな顔をするだろう。

 幻滅するだろうか?

 否、されたい、と願っているのではないだろうか?

 あの、どこまでも純粋な笑顔が歪む様が見たい。

 嫌悪されたい。

 縛られているのが嫌なのだ。

 嗚呼やっぱり結婚なんてするんじゃなかった。

 子供が出来る様子もないし。

 嫌だ嫌だ。何もかも捨ててしまいたい。いっそすゞ音が俺に愛想を尽かしてくれたら良いのに。

 その願いは無残にも打ち砕かれるのだけれど。

 女の匂いをさせながら帰ったのはもう朝も近い時間。

 ガラリと引き戸を開けたら玄関口にすゞ音が正座していた。

「遅いお帰りでしたね」 

「あぁ、久し振りに誘われて」

「ご学友とでしたら仕方ありませんね」

 お兄様もぼやいてらっしゃいましたわ、なんて言ちるすゞ音に、お兄様? と目を眇める。

「従兄弟のお兄様です」

「ふぅん」       

 興味も薄く頷いてシャツのボタンを外していく。

「風呂、入れる?」

「すぐに沸かします」

 身軽な足取りで外へ駆けていくすゞ音を見送って、俺は風呂場に赴いた。

「お兄様、ねぇ……」

 すゞ音が口にしたその単語にはどこか特別な響きが重なっていたような気がして。

 すゞ音一人に縛られているのが嫌な癖に、俺以外にすゞ音が特別だと思う奴が居るのだとしたらそれはそれで気に食わないものがあった。

 風呂から上がって朝飯に手も付けずベッドに潜り込む。

「貴裕さん、高等学校は?」

「休講」         

「そうですか」  

 ゆっくりお休みになって下さいね。

 そんな気遣いが逆に煩わしいんだと、彼女が気付くのはいつだろう。

 結婚して早十月。

 相変わらず交わっても子が出来る訳でもなく、俺はいよいよ外に出ることが多くなった。

 頭ごなしに祖父に怒鳴られることがなかったのは、ちゃんと大学には受かっていたからだ。

 行く気はないが、祖父を程々に黙らせる理由にはなった。

 この頃にはもうすゞ音は完全に俺に落ちていた。

 気紛れにする夫婦ごっこ(少なくとも俺にとってはごっこ遊びだった)でも彼女の気を惹くには充分だったらしい。

 すゞ音の啼く声は金管楽器のようで。絡み付く腕はしなやかかつ陶器のようで。

 匂い立つ汗の香りさえ石鹸の匂いがした。

 いつまでも汚れないすゞ音が嫌だった。

 俺に相応しくないと思った。

 俺みたいに薄汚れた人間はすゞ音のように清らかな人間の傍に居るべきじゃない。

 初めこそ面白半分で抱いていた身体にももうとうに飽きていた。

 俺なんか見限ってさっさと実家に帰れば良い。

 何せすゞ音はまだ若い。

 他にもっと良い男が居る筈だ。

 そう考える俺は善人なのか悪人なのか。

「貴裕さん」      

 花の咲くような笑みを向けられると苛々が止まらなくなって、俺はある日ひとつの賭けに出た。

 すゞ音が買い物に行く時間は決まっている。

 その時間を見計らって家に売女を呼び込んだ。

 すゞ音とは真逆をいく性質の女を。

 いつもすゞ音と二人で寝るベッドに女を組み敷いて激しく貪った。

 先に頼んでおいたよう、女には大袈裟な声を上げさせて。

 カタン、と戸が開く音。

 靴を見たのだろう。

「貴裕さん? ご友人とご一緒ですか?」

 なんて何も知らない無垢な声。

 俺は、はっ、と息を吸ってから一層激しく女に食らい付いた。

 流石に異変に気付いたのだろう、パタパタと逸る足音。

「貴裕さん?」     

 カチャリ、と開いた戸から覗いたすゞ音と肩越しに視線を交えて俺は不敵に笑んだ。

 直後、バタン! と勢い良く閉まった扉。

 あっあ、と吐息を啼かせていた女が髪を掻き上げながら俺を見上げた。

「これでいーわけ?」  

「上等」       

 こっから先は普通に楽しもうぜと小さく笑って、俺は最後まで女との交わりを愉しんだ。

 情事を終え、女を家から放り出して勝手口に行く。

 その隅で膝を抱えて耳を塞いでいたすゞ音の腕を引いて立たせる。

「ねぇ、俺のどこが好きだったの」

 嘲笑混じりに問う。

「それは……」 

「俺がこんなことする奴だって知って、幻滅した? したでしょ、ねえ?」  

「…………」 

「俺、誰かに一筋になるとか無理なんだよね」

「貴裕さ……」

「俺は一生お前だけのモノにはならないよ」

 口の片端を上げて云う。

「そもそも家庭を持つだなんて真似はガラじゃないんだよ」  

 嘲ったのはすゞ音をか、自分をか。

「親が決めた結婚なんて下らないと思わないの」

 黒曜石を見詰めたら、すゞ音は掠れるような声で答えた。

「……女の人生は、そのようなものです……」 

 馬鹿馬鹿しいと思った。

 何が女の人生は、だ。

 そんなことが云えるのは純粋培養されてきた人間だけが云える台詞だ。

 歪んだ愛情で育てられた人間は人生に男も女もない。

「なぁ、俺なんか捨てて看護婦になりなよ」 

「でも……」   

「俺はこれから何度だってあの部屋に女を連れ込むよ」 

 それで、俺とお前はその情事で汚れた布団で肩を並べるんだ。

 何ていう悪夢だと思う?

 キシキシと金属が擦れるような声で笑って俺はすゞ音の腕を放った。

「今ならまだ間に合うよ。よく考えな」     

 それは俺なりの優しさだった。

 それから三日。無言で俺の世話をし続けたすゞ音は、四日目、俺が社交喫茶で遊んでいる間に青酸カリの過剰摂取で死んだ。

 最期に着ていたのは唯一俺が進んで見立ててやった萌黄色の小袖だった。

 

 鯨幕が目に痛い。

 すゞ音の遺書には一言。

『初めて好いた人を愛し続けたいので世を儚みます』

 ただそれだけ。

 馬鹿じゃないのかと思った。

 初めて好いた人だって?

 俺は誰かの一番になんかなりたくない。

 こんな手紙ひとつで縛ろうだなんて浅はかにも程がある。

 祖父には何があったか散々責め立てられた。

 俺は知らぬ存ぜぬを繰り返すしかなかった。

 喪主として最後の参列客を見送ってから、一人鯨幕をただ眺めるでもなく眺める。

 風で時折膨らむ白と黒。

 そうだ。人生は白と黒しかない。すゞ音は白い世界で、俺は黒い世界で生きる人間なのだ。

 鯨幕のように、その白と黒が混じることはない。

「人殺し、になったのかな」

 すゞ音が死んだのは確かに俺の所為で間違いないだろうから。

 俺は人を殺した咎人だ。

 唇に薄ら笑い。

 女狂いに人殺し。

 何ていう様だ。

「っはは、」 

 悲しい訳でも、辛い訳でもなかったけれど、どうしてだろう。視界が僅かに揺らいだ。

 

 

               

                                         

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