第23話 存在しない本と、栞の挑戦状
天野栞が去った後の図書室は、元の静寂を取り戻していた。
でも、わたしの心は、まるで嵐が過ぎ去ったかのように、ざわめき続けていた。
これまでの敵は、「世界の終わり」という、抗いがたいけれど、ある意味で予測可能な現象だった。ループを繰り返す中で、わたしはそのパターンを学び、対策を練ることができた。
でも、彼女は違う。
天野栞という存在は、わたしの33回のループの記憶のどこにも存在しない、完全に未知の“ノイズ”。
彼女の意図も、能力も、正体も、何もわからない。彼女の気まぐれ一つで、わたしたちが積み上げてきたすべてが、砂上の楼閣のように崩れ去ってしまうかもしれない。
その底知れなさが、わたしを言いようのない不安に陥れた。
6回目のループでわたしに接触してきたという「大学院生」。顔は違う。でも、あのすべてを見透かすような瞳の奥の光は、確かに似ていた。
もしかして、“観測者”は、ループごとに違う
だとしたら、彼女の目的は、わたしたちの行動を監視し、誘導し、そして最終的に、朔くんを絶望させること……。
「――大丈夫だ、陽向さん」
わたしが一人、暗い思考の海に沈みかけていた時、力強い声と、温かい感触が、わたしを現実へと引き戻した。
気づけば、朔くんが、わたしの手を固く握ってくれていた。
彼の顔には、動揺の色はもうなかった。ただ、これから対峙すべき敵を真っ直ぐに見据える、戦士のような光が宿っていた。
「敵か味方か分からないなら、確かめるしかない。うじうじしてても始まらない。俺たちから、動こう」
その頼もしい言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ああ、そうだった。わたしは、もう一人じゃないんだ。
かつては、わたしが一人で悩み、計画を立て、彼を導こうとしていた。でも、今は違う。彼が、迷いそうになるわたしの手を引いて、前へと進もうとしてくれている。
この、どうしようもなく幸福な関係性を、わたしは絶対に手放したくない。
「……うん。そうだね」
わたしは、彼の手を強く握り返した。
「まずは、あの天野栞っていう子のことを、調べてみよう」
わたしたちは、まず図書委員の名簿を開いた。
『天野 栞。1年2組。特記事項、特になし』
書かれているのは、それだけ。ごく普通の、真面目そうな一年生にしか見えない。
「どうやって、探りを入れる?」と朔くんが言う。「ストレートに聞くか? 『あなた、何者だ』って」
「それは危険すぎるよ。相手に、わたしたちが何を知っているか、手の内を明かすことになる」
わたしは首を横に振った。
「まずは、彼女が言っていた本。あの『箱庭の神と思われた男』を探してみよう。彼女がわざわざわたしたちに見せたんだ。きっと、そこに何かヒントがあるはず」
「分かった。それが確実だな」
朔くんも納得してくれた。こうして、二人で意見を出し合い、最善策を決めていく。その一つ一つのプロセスが、わたしたちが対等なパートナーになった証のようで、誇らしかった。
でも、わたしたちの調査は、すぐに行き詰まった。
高校の図書室の蔵書検索システムにも、町の大きな書店の在庫データベースにも、もちろん、インターネットの広大な海のどこにも。
『箱庭の神と思われた男』というタイトルの本は、一冊たりとも存在しなかったのだ。
「そんなはずはない……!」
朔くんが、混乱したように呟く。「あいつは確かに、この辺りの書架から、あの本を取り出したんだ!」
わたしたちは、天野栞が本を取り出したはずの書架へと戻った。
SF小説が並ぶ、古い棚。
でも、いくら探しても、そんなタイトルの本は見当たらない。
その時だった。
目の前の書架が、ぐにゃり、とありえない形に歪んだ。本の背表紙が溶け合い、棚そのものが禍々しい幾何学模様へと変化して――すぐに、元の姿へと戻った。
世界の“バグ”。それは、まるで、わたしたちの探索を嘲笑うかのようだった。
「……なんだ、今の」
呆然とする朔くんの視線の先を追って、わたしは息をのんだ。
さっきまで何もなかったはずの書架の棚の上に、一枚だけ、栞が、ひらりと置かれている。
黒いリボンのついた、趣味の良い栞。天野栞の、「栞」。
そっと手に取って、裏返してみる。
そこには、インクが滲みそうなほど美しい、流麗な手書きの文字で、こう記されていた。
『本は、探しても見つかりませんよ。だって、この世界にはまだ“存在しない”本ですから』
心臓が、凍りついた。
存在しない本? それを、彼女はどこから取り出したというのか。
この世界の法則を、捻じ曲げたとでもいうのか。
栞には、続きがあった。
数字の羅列。緯度と経度を示す、座標のようだった。
『96.39.27.13』
これは、間違いなく、彼女からの挑戦状だ。
わたしたちの行動を見透かし、その上で、次のステージへと誘っている。
彼女は、やはりただの後輩なんかじゃない。世界の法則にさえ干渉できる、規格外の存在。
わたしと朔くんは、その小さな栞を挟んで、顔を見合わせた。
その目に浮かんでいたのは、恐怖ではなかった。
行くか、行かないか。
そんな選択肢は、もう、わたしたちにはなかった。
この謎のゲームに、乗るしかない。
わたしたちの未来を、自分たちの手で掴み取るために。
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