選ばれなかった私たちへ ―時空パラドクス学園の恋―

ソコニ

第1話 死んだ恋人と、出会った。



 夕焼けが、いつもより赤い。


 放課後の交差点で、私は立ち尽くしていた。スマホの画面には、半年前の今日の日付が表示されている。光也が死んだ、あの日と同じ日付。


 横断歩道の向こう側に、見慣れた後ろ姿があった。


 茶色い髪。学生鞄を肩にかけた歩き方。振り返った横顔の、優しい目元。


 ──光也?


 心臓が、音を立てて跳ねた。


 ありえない。だって光也は、半年前にここで──この交差点で、トラックに──


「光也!」


 我を忘れて叫んでいた。


 彼がこちらを振り向く。その瞬間、息が止まりそうになった。間違いない。あの優しい瞳、少し困ったような笑顔。すべてが、私の知っている光也だった。


 でも、彼の隣には誰かがいた。


 黒髪の、女の子。


 信号が青に変わり、二人がこちらに歩いてくる。一歩、また一歩と近づくにつれ、その女の子の顔がはっきりと見えてきて──


 私は、凍りついた。


 それは、私だった。


 同じ顔、同じ背格好。違うのは髪が腰まで長いことと、着ている制服が真っ白なことだけ。まるで鏡を見ているような、でも鏡じゃない。向こうも、生きて、呼吸をしている。


「あら」


 その子が、私を見て微笑んだ。


「あなたも、ここに来たんだね。"私"」


 頭が真っ白になった。何を言われているのか、何が起きているのか、まるで理解できない。


 光也が生きている。

 私と同じ顔の女の子がいる。

 その二人が、親しげに並んでいる。


「美紅...?」


 光也が、私の名前を呼んだ。懐かしそうな、でもどこか戸惑ったような声で。


「違うわ」


 白い制服の"私"が、光也の腕にそっと手を添えた。その仕草があまりにも自然で、私の胸が軋んだ。


「この子は、現在の美紅。私は──」


 彼女が振り向いて、私をまっすぐ見つめた。


「未来から来た美紅よ。ミラって呼んで」


 ミラ、と名乗った"私"は、優雅に微笑んだ。私には絶対にできない、大人びた微笑み方で。


「光也、驚いた?でも、これが時空パラドクス学園のルールなの」


 時空パラドクス学園?


 聞いたこともない単語に、ますます混乱する。でも光也は、まるで知っているかのように小さく頷いた。


「そうか...また、始まるんだな」


 また?


 光也の横顔に、見たことのない陰りがよぎった。怯えているような、諦めているような、複雑な表情。


「行きましょう」


 ミラが私に向かって手を差し伸べた。


「あなたも選ばれたのよ。この世界に」


 選ばれた?何に?どうして?


 疑問ばかりが頭を駆け巡る中、私は震える手でその手を取った。触れた瞬間、ミラの手のひらの温度が、私と全く同じだと気づいて、また震えた。


 景色が、ゆらりと歪んだ。


 見慣れた街並みが溶けていく。コンビニも、歩道橋も、すべてが水彩画のように滲んで──


 気がつくと、私たちは見知らぬ場所に立っていた。


 古い洋館のような建物。「時空パラドクス学園」と書かれた錆びた看板。空は相変わらず夕焼け色で、でもさっきよりもっと深い赤に染まっている。


「ここは...」


「境界よ」


 ミラが振り返らずに答えた。


「現実と時空の狭間。選ばれた者だけが来られる場所」


 光也が、私を見た。半年ぶりに見るその顔は、少しやつれているように見えた。


「美紅、怖がらなくていい。俺も最初は戸惑ったけど...」


「最初?」


 私の問いに、光也は答えなかった。ただ、哀しそうに目を伏せるだけ。


 ミラが建物の扉を開ける。軋んだ音を立てて、重い木の扉がゆっくりと開いていく。


「さあ、入って。すべての答えは、この中にあるわ」


 薄暗い廊下が、奥へと続いている。壁には無数の写真が飾られていて、そのすべてに写っているのは──


 私、だった。


 知らない場所で、知らない服を着て、知らない表情をしている、私。


 その中の一枚に、光也と寄り添う私が写っていた。幸せそうに笑っている。でも、それは私の記憶にはない光景で──


「これは、いつの...」


「時間なんて意味がないのよ、ここでは」


 ミラが立ち止まり、振り返った。その瞳に、初めて真剣な光が宿る。


「過去も未来も現在も、すべてが交差する場所。それが時空パラドクス学園」


 廊下の奥から、足音が聞こえてきた。


 カツン、カツンと、規則正しいリズムで近づいてくる。光也の顔が、さっと青ざめた。


「まさか...もう来たのか」


「ええ。私たちより早く着いていたみたい」


 ミラの声にも、緊張が滲んでいた。


 足音の主が、闇の中から姿を現す。


 黒い制服。

 ボブカットの黒髪。

 そして──私と、同じ顔。


「こんばんは」


 その子は、甘い声で言った。瞳に宿る狂気的な光を隠そうともせずに。


「また会えたね、光也くん」


 光也が、一歩後ずさった。


 恐怖。

 それは明らかな恐怖の表情だった。


 私の顔をした誰かを見て、光也が怯えている。その事実が、鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。


「あなたは...」


「ミクレア」


 黒い制服の"私"が、ゆっくりと近づいてくる。


「私も美紅よ。ただ、少し...愛し方を間違えちゃった美紅」


 ミクレアと名乗った彼女の手が、光也に向かって伸びる。光也はさらに後退り、壁に背中をつけた。逃げ場がない。


「やめて」


 私は思わず叫んでいた。


「光也に触らないで!」


 ミクレアが、初めて私を見た。その視線は、氷のように冷たかった。


「あら、現在の私。弱々しくて、可愛いわね」


 バカにするような口調に、カッと頭に血が上る。でも、次の瞬間には恐怖で体が震えた。ミクレアの瞳の奥に、底知れない闇を見たから。


「でも、邪魔」


 ミクレアが一歩、私に向かって踏み出した時──


「そこまでよ」


 凛とした声が響いた。いつの間にか、廊下の奥に銀髪の人影が立っていた。性別すらわからない、中性的な顔立ち。感情の読めない、硝子のような瞳。


「時空裁定者...セレス」


 ミラが小さくつぶやいた。


 セレスと呼ばれた存在は、私たち全員を順番に見渡した。


「美紅が三人。光也が一人。条件は満たされた」


 機械的な声が、廊下に響く。


「これより、選定を開始する」


 選定?


 不吉な響きに、背筋が凍る。


「この世界に残れる美紅は、一人だけ」


 セレスの言葉が、私の心臓を貫いた。


「選ばれなかった者は、存在ごと消滅する」


 消滅──


 その単語の意味を理解した瞬間、膝が震えた。


 つまり、私とミラとミクレア。この中で生き残れるのは、たった一人だけ。選ばれなかった二人は、この世界から完全に消えてしまう。


「そんな...」


「拒否権はない」


 セレスの声は、あくまでも無機質だった。


「これは時空の法則。複数の同一存在は、一つの世界に共存できない」


 光也が、苦しそうに息を吐いた。


「また...また、選ばなきゃいけないのか、俺は」


 その言葉の意味が、恐ろしいほどはっきりと伝わってきた。


 選ぶのは、光也。

 選ばれるのは、私たちの中の誰か一人。

 選ばれなかった二人は──


「明日の夕暮れまでに、決着をつけること」


 セレスが踵を返す。


「それまでは、自由に過ごすがいい」


 銀髪が闇に溶けていく。足音も、気配も、すべてが消えてしまった。


 残されたのは、私たち四人。


 いや、私が三人と、光也が一人。


 重い沈黙が、廊下を支配した。


 死んだはずの恋人に会えた喜びは、もうどこにもなかった。


 代わりにあるのは、恐怖と、不安と、そして──


「大丈夫よ」


 ミラが、優しく微笑んだ。


「きっと、一番ふさわしい人が選ばれる」


 でも、その言葉は私を安心させなかった。


 だって、ミラは完璧で、美しくて、光也との思い出もたくさん持っている。


 ミクレアは、狂気的だけど、その分光也への想いは誰よりも強そうだ。


 じゃあ、私は?


 内気で、自信がなくて、光也との思い出だってたった一年半しかない私は?


 答えは、出なかった。


 窓の外では、夕焼けがさらに深い赤に染まっていく。


 まるで、血のような色に。


 時空パラドクス学園での、最初の夜が始まろうとしていた。


 明日の夕暮れまでに、私たちの中の誰かが消える。


 それが、私かもしれない。


 震える手を、ぎゅっと握りしめた。


 選ばれたい。

 でも、選ばれることで、他の"私"が消えてしまう。


 矛盾した想いが、胸の中でぶつかり合う。


 光也が、そっと私の名前を呼んだ。


「美紅」


 振り向くと、あの優しい瞳が私を見つめていた。半年ぶりに見る、大好きだった瞳。


「怖がらせて、ごめん」


 違う、と首を振りたかった。

 怖いのは、あなたのせいじゃない。


 でも、声が出なかった。


 だって、気づいてしまったから。


 光也の瞳の奥に、私を見ているようで、私じゃない誰かを見ている、そんな複雑な光があることに。


 彼にとって私は、三人の美紅の中の、ただの一人でしかない。


 特別じゃない。

 唯一じゃない。


 その事実が、何よりも恐ろしかった。

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