第5話
ニールセンはとても長閑な、小さな街だった。
町外れに小さな湖がある。
メザンルーク家の別荘はその湖畔にあった。
ようやく館に入ると、館の者達はアンリがサンゴールの王女を伴って現われたことに仰天して、大したもてなしが出来ないとアンリの祖父母は孫を叱った。
しかしミルグレンが、自分が無理に連れて来てもらったのだと説明すると、とりあえず部屋を用意し休めるようにしてくれた。
ミルグレンは屋敷から見える街の時計塔を窓辺から見つめていた。
扉が鳴る。
「アンリです。姫、部屋はこちらでよろしかったでしょうか?」
「うん。平気。ありがとう。ごめんねなんかみんな忙しくさせちゃって」
階下で人が走り回っている気配が伝わって来る。
「いえ、いいんです。いつも長閑に暮らしているものですから。まさかサンゴールの姫が現われるとは夢にも思ってなかったのでしょう」
「あのね、もてなしとか……私、別に何もいらないからね」
「そういうわけにはいきませんよ」
アンリは困ったように少し笑った。
「……ねぇ街を見に行きたいの。
行ってもいい? 陽が落ちる前にはここに戻って来るし」
「お一人でですか⁉」
「うん」
「む、無理ですよ! 何かあったら本当にメザンルーク家は終わりです!」
何を恐ろしいことを言うのだ、この姫はという顔をして青年は首を振った。
「大丈夫だよー。私剣も弓も使えるもん。
言っておくけど貴方より私の方が絶対に強いわよ?」
ぶー、とか頬を膨らませた十三歳の王女にアンリは一生懸命首を振った。
「ダメです! どうかそれだけはご勘弁を!」
「なんでよ。城とかも抜け出して遠駆けとかいつもしてるもん」
「そ! そんなことをしてるんですか⁉」
「うん。だってお城なんかつまんないし。といってもあの鬼イリディスが来てから随分それもやり難くなっちゃってすんごいムカつくんだけどさ」
「普通姫は城を抜け出したりは」
「あー! もううるさいの! こんな所に籠ってたら折角ニールセンに来た意味ないじゃない! 私は絶対行くからねっ!」
ミルグレンは腰に短剣を下げた。
アンリは慌ててついて来る。
「私もついていきますよ! あと、街の中のみですから!」
青年は必死にそう言った。
◇ ◇ ◇
アンリが街を案内してくれた。
最初は緊張してあわあわしていたが、青年は徐々に落ち着き街の時計台や教会、店などを丁寧に案内してくれた。
町外れにたどり着くとなだらかな丘の上を指差した。
「そしてあれが魔術館です。サンゴールの宮廷魔術師団の支部で、王都から宮廷魔術師が派遣されているのです」
アンリはミルグレンとメリクの事情は知らないようだった。
王女と若き宮廷魔術師の淡い恋の噂は、王都の社交界に深く関わる者なら誰しも知っている話である。
だがこの青年はミルグレンに対して、宮廷魔術師という単語を使っても何も結びつかなかったようだ。そのことに、妙にミルグレンは安心した。
「では、そろそろ屋敷に……」
帰ろうとしたアンリの服をミルグレンがぎゅっと掴んだ。
「姫?」
「魔術館、見てみたい。」
アンリは振り返って、一つ瞬きをした。
◇ ◇ ◇
淡い紫の術衣を着た魔術師がたくさんいた。どうやらこれが彼らの制服らしい。
書物を開いたり何か薬を混ぜて研究らしきことをしていたりする。
サンゴール王女がこんな所にいるなどと騒ぎになっても困るので、アンリはニールセン魔術館の責任者には、王都から里帰りしている妹が魔術のことに興味を持っていて、と説明し案内を頼むことにした。
メザンルーク家はニールセンでは領主になる。
その当主の息子の願いを、ニールセン魔術館の責任者は快く引き受けてくれた。
ミルグレンは王女だが、王女は公にあまり出て来ないサンゴールにおいて、王都を離れれば彼女の顔を知る者は案外少ないのである。
「ニールセン魔術館の主任魔術師、コルドラン・ホリーロッドと申します。王都からよくお越しになられました。ここは見ての通り長閑な街ですが、こんな所でよかったらどうぞゆっくり見て行ってください」
「皆ここで何をしているの?」
ミルグレンは不思議そうに魔術師達を見ている。
「主に薬の調合や新薬の開発です。ここから南にあるダリという山地には、大陸でも希少な薬草などが群生していますので、王の勅命を受け宮廷魔術師団がダリ山地や草原一帯を管理しているのです」
「だからニールセンに魔術館があるんですね」
アンリも初めて知ったように頷いている。
「よければ薬学室をご覧ください。世界広しと言えどここほど保管種を誇る場所はないでしょう」
薬学室には完成した薬品や、その元となる原料などが二階まで続く棚に細かく保管されていた。
続く温室には沢山の植物が栽培されている。
ミルグレンは見回しながら、ある棚にあった大きな本を何気なく取り出した。
「……あの、これなんですか?」
アンリと話していたコルドランがああ、と頷く。
「その本棚は記録の保管場所なのです。この部屋にある薬品の製造者が日付とサインを記録しているのですよ」
そう言って彼は鍵を使い隣の棚も開いてくれた。
「古くから習慣でしてね。新人の宮廷魔術師は必ず研修期間にこのニールセン魔術館に来る伝統がありますから、その記録書には意外な名前も載っているのですよ。
ニールセンの魔術館がこの地に建てられて約八十年。その初年度からの記録が残っていますからね。
今では名のある魔術師のサインなどももちろん載っているのです。
結界魔法の使い手であった宮廷魔術師メイガン・ドーリアや前宮廷魔術師団長であるバルキオス・ラインズブルクの名も記載されています。あれほどの方でも若い頃はこの地でしばらく修行をされたわけです」
「……見てもいい?」
ミルグレンの瞳に微かに灯った光を、少女らしい好奇心と思ったコルドランはどうぞと快く扉を開いてくれた。
日付を多く遡る必要は無い。
少女は魔術にも偉人にも興味は無かった。
そっと捲るページ。
日付はメリクがサンゴールを去ったとされる日を越えた。
まだサンゴールに彼が確かにいた日付に入りそして、その名を見つけた時、ミルグレンはドキリとした。
心臓が途端に早くなる。
間違いない、よく知ったメリクの字。
何度も手紙で読んだことがある、綺麗な字。
『サダルメリク・オーシェ』――そう彼が自分で刻んだ名が残っていた。
エンドレク・ハーレイは事態は深刻であり、メリクの名は公文書から消されているとも言っていた。
それを命じることが出来るのは女王以外は無い。
だからミルグレンは母を憎んだが、エンドレクは「陛下を憎んではなりませんよ」と、まるで彼女の心を見透かすようにそう言った。
彼は「その措置が結果としてメリクを一番守ることになる」とも言った。
ミルグレンには分からなかった。
メリクの名を消すことが何故、彼を守ることになるのだ?
今まではサンゴールの人間たちは、必要の無い時まで彼の名を口に出し、無理に表に引きずり出し、利用し、詰って、惑わせ傷つけていたのに。
今は忘れることを感謝しろなんて都合が良すぎると思う。
今更隠すくらいなら最初からそっとしておいてほしかった。
そうすればメリクはもしかしたら、今も心穏やかに自分の側にいてくれたのかもしれない。
ミルグレンがあまりに熱心に見ているため、コルドランが不思議そうに本を覗き込んで来た。
「何か面白いものがありましたかな?」
笑いながらそう話し掛けたが、すぐに彼は気付いたようだった。
さっ、と顔色が変わる。
「……さぁ、他の場所もご案内しましょう」
やんわりと、しかし明らかにミルグレンの目から奪うように本を畳んだ。
その本を棚には戻さず、彼は部下の魔術師に目配せをしてその本を預けた。
王都ではすぐに厳密に実行された勅命も、このニールセンでは隅々までは浸透していない。
また一つ、メリクの名前が消されるとミルグレンは思った。
魔術館を歩いていると、そのうちに一人の魔術師がやって来てコルドランに何かを耳打ちをした。
「……これは失礼をいたしました、姫。私は長年ニールセンの魔術館勤務を任されて来たので、幼い姫君の顔を知らずに大変ご無礼を」
ミルグレンの顔を知っている魔術師がこんな所にもいたらしい。
きっとミルグレンが大人になるにつれて、王位継承権の無い姫とはいえ彼女の顔を知っている人間がもっともっと増えて来る。
……そしてどこへいっても、こんな対応をされるようになるのだろう。
「王都であの第二王子殿下の魔術を近くに触れてお過ごしの姫君には、ここはいかにも退屈でしょう」
礼を尽くした言葉であったが、何かニールセン魔術館の不始末をこれ以上見られては困ると思ったのか、彼がミルグレンを早々にここから追い払いたいのは目に見えていた。
宮廷魔術師は王女の顔は知らずとも【
第二王子の師事を受けたサダルメリク・オーシェがその恩義に背いて離反した。
リュティスに絶対的な畏怖を覚える宮廷魔術師団にとって、今メリクの強い庇護者の一人であると言っていい王女ミルグレンと接触するのは、得策ではないと考えたのである。
お送りしますというその言葉で、ミルグレンは館を出ることになったのだった。
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