その翡翠き彷徨い【第53話 失われた名前】
七海ポルカ
第1話
辺りを見回す。
誰もいない。
(よっし)
壁をよじ上り始めた瞬間。
「――おかえり。」
いきなり声を掛けられて驚いた少女はドーン! と無様に尻から地面に落ちた。
「いたぁーいっ! 突然声かけないでよお母様!」
「あら。なぁにお母様に対して随分無礼な物言いじゃない? お姫様」
女王アミアカルバが腰に手を当てて首を傾げてみせた。
何ともない仕草だが、アミアがやると威圧感があるのが不思議である。
娘である王女ミルグレンはうっ……、となった。
しかし母親は溜め息をついて娘を助け起こす。
「夜に城出するなんていよいよあたしに似て来たわねぇ」
「うるさいもんほっといて!」
ミルグレンはぷんっとそっぽを向いた。
ミルグレン・ティアナは今年で十三歳になった。
一時休学していた王立アカデミーに復学し、社交界へのお披露目もすませた。
王女の母として一応の区切りをつけた心持ちだったのだが、丁度その頃からミルグレンがよく頻繁に城から出て、行方を晦ますようになって来た。
外を出歩いているようだがよくは分からない。
単純に城下で遊び回っているということでもないようなのだが、どこへ行っているのかを、彼女は誰に問いつめられても決して答えようとしなかった。
「まぁ夜逃げはとにかくよ」
アミアは汚れたミルグレンの服を払ってやる。
「ミリー。今日はラドナー公爵の息子と会う約束だったでしょ?」
ミルグレンは頬を膨らませている。
「あんたねぇ……。ミルグレン。いい?
私は何も貴族相手に年頃のあんたを叩き売りしてるわけじゃないのよ。
何度も言ってるけど貴方は好きな相手と一緒になればいいわ。
もちろん吟味はするけどね。だから本当に嫌いな相手なら会う必要は無いの。
ラドナーとは貴方が会ってもいいって頷いたのよね?
引き受けといてすっぽかすのは、だらしない上に相手も傷つけることになるでしょう。 貴方最近そういうのが多いわよ。
自分で会うと決めた相手なら責任持ってちゃんと会いなさい」
「嫌になったんだもん」
「だもんじゃないわよ。せめて会食前に言いなさいそういうことは。ラドナー可哀想だったわよ。すっごい花束と他にもプレゼントも用意して待っていてくれたのに」
「いらないもんそんなもん!」
「なぁにこの子ってばもんもんばっかり言って。いつからそんな変な言葉遣い覚えたわけ?」
「だってラドナーは私が王女だから構って来るだけだもん!
私のことなんかあいつ何一つ分かってない。
見てもない!
この前くれた髪飾りだって全然私の好みと掛け離れてたし!」
「物を贈られて癇癪なんか起こさないでよ。別に損はしてないんだからありがとうって貰っとけばいいのよそういうのは」
アミアは呆れ顔だ。
「あんたは我が儘なくせに。妙な所で生真面目で融通が利かないんだから」
ミルグレンはその言葉に表情を険しくした。
「そーよ! 私はお母様みたいに狡く生きたくないもん!」
「何のことよ。そんな話今してないわ」
「どうして私ばっかり好きでもない相手と会わなくちゃいけないの?
アカデミーの子達はみんな好きな人と付き合ってる。
なのに私はいつもいつも、話したこともない人と会わなくちゃいけない!」
「好きでもない相手には会わないでいいって言ってるでしょうが」
「嘘だもん! お城の皆、侍女達もいつもあの人と会えとかこの人がいいとかそんなことばっかりだもん! どうでもいい話ばっかり毎日毎日聞かせて来る!」
「あのねぇ。侍女なんか城で住み込んで、そのくらいの噂話するくらいしか楽しみなんだから大目に見てあげなさいよ」
「私が好きなのはメリク様よ!」
夜の王宮にピィン、と響いた。
「どうして皆、メリク様を無視するの⁉ お母様もリュティス叔父様も、突然メリク様の名前忘れたみたいになって、変だよ!」
アミアは静かな表情をしていた。
「レインはお母様達みたいにすぐに人を忘れて生きたくない! この人がいなくなったからすぐにあの人みたいになんか絶対に思えない!」
「ミルグレン。」
「なによっ!」
「メリクを忘れないのは貴方の勝手よ。
だからといって関係のない人間を、
貴方がメリクを好きという理由で傷つけていいことにはならないわ」
冷たい声音で女王は言った。
「貴方の勝手って……メリク様をここに連れて来たのはお母様じゃない! それなのに今更忘れろなんて、そっちの方が勝手すぎるよ!」
「いない人間の話はいいわ」
アミアは短く言った。
「身近にいる人間をまず大切になさい」
背を向けて歩き出す。
「お母様!」
「私はねミルグレン。
小さい頃から貴方には自由を与えて育てて来たつもりよ。
もちろんサンゴールの王女として許す限りという範囲でね。
それでも貴方が王女という身分に息苦しさしか感じ取れ無いというのなら、
自由を与えても意味がないわ。
それにメリク以外無意味なんて馬鹿なことを本当に言うなら……。
あなた本当にサンゴール王家にとって都合がいい家柄だけの貴族の所に、
私の独断で嫁がせるわよ」
アミアカルバは決して優しいだけの母ではない。
ミルグレンはゾッとした。
この人なら本当にしそうだと思ったのだ。
「言っておくけど、そうしたいとは私も望んでないわ。これでもね。でも選ぶのは貴方よミリー。私が『母親』の顔を見せてる間にその身勝手さを何とかしなさい」
「お母様のバカッ!」
「誰が馬鹿よ……それとすっぽかしはもう許さないわ。自分が会うと言った相手にはきちんと会いなさい。いいわね」
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