百花茶坊で休息を
水無月せん@コミカライズ葬送師~開始
第一章 聖華公主は死にました
第1話 後宮から辺境へ
今、どこにいるのだろう。
馬車に揺られ、屋根のない荷台の上で膝を抱えていた。麻袋に包まれているので外からは積荷のひとつにしか見えない。視界は一面薄茶色で風景はわからないけれど、布目の隙間から差し込む光の加減で、日差しの強さが変わっていくのはわかった。
侍女の言葉を思い出す。
「
皇后付きの侍女である
脱出の手筈を整えたのは瑛児だが、死んだことにして後宮を脱出すると提案したのは、三皇女である私だ。一皇子、二皇子と男児が続き、三番目に初めて女児が生まれたので私は長女だ。
今ごろ後宮は大騒ぎだろう。
騒ぎの裏で皇后はほくそ笑んでいるだろうか。娘の恋敵が死んでくれたと。
後宮で育った私は外の世界を知らない。自由な恋愛など存在しない。もう十七歳だから、そろそろ誰かに嫁ぐのだろう、言われるがままに。そう思っていたけれど、恋敵と決めつけられ危害を加えられそうになり、流されて平穏に生きていくのも無理なのだと悟った。
――もう、あんなところにはいられない。
私が十歳のときに母は病で亡くなった。元々皇后や母親違いの妹たちに目の敵にされていたが、母の死によって完全に孤立したので、後宮での暮らしに未練などなかった。
左手に付けている翡翠の腕輪を撫でる。宝飾品は置いてきたが、形見である腕輪だけは持ってきた。母の祖父は高名な道士で、この腕輪に特別な力を込めたという。持ち主を守ってくれると母は言っていた。
これからどうやって生きていこう。
頼れる人はいない。
後宮での生活は豪勢だったけれど、悪意や策略に満ちていた。母は私に後宮外の話をしてくれた。自ら筆を取り絵を交えて語られる世界は、とても魅力的に思えた。鳥籠の中の鳥が外を眺めているときの気持ちは、こんな感じだろうか。
後宮だけではなく、どこにでも悪意ある人はいるだろう。その程度のことはわかっている。だけどこれ以上後宮にいたら心が冷え切って死んでしまう。何の喜びも知らずに死ぬことを思えば、多少の苦難は乗り越えられるはずだ。
四皇女の嘲るような視線を思い出す。
「聖華公主って本当に無愛想ね。少しは笑ったら。陰で氷公主って呼ばれているの知ってる?」
笑ったら、媚び売ってるって罵るくせに。
桃色や黄色などの華やかな衣装を着ると、真似をしないでと言われるから、水色などの寒色ばかりになっていた。氷公主という陰口は、無表情と衣装の色から名付けられたのだろう。
衣装の色になどこだわりはないので、我慢をしていたわけではない。怯えていたのではなく、何もかもどうでも良かった。
このまま、死んだように生きていくのだろうか。そう思いかけていたとき、選択の瞬間が突然きたのだ。
そろそろ降りる頃合いだろうか。
馬車の速度が徐々に遅くなり、止まった。
御者が降りる気配。足音が遠ざかっていく。
建物の扉を叩く音。
「おーい、店は開いてるのか」
「開いてるよ。お茶しかないが」
高齢男性らしい小声で返答があった。
「お茶だけ? 前は食べ物もあったろう」
御者は店に入ったのか、扉が閉まる音がした。休憩だ。だけど飲み物のみなら、長居はしない。
――急がないと。
頭上の布を押し上げた。すぐにほどけるよう緩く縛られている。はらりと布が落ち、急に視界が広がった。
眩しい。
目を細めた。
陽は傾きかけ、青空の端に緋色が迫ってきていた。空に向かうようにまっすぐ続く道。この遥か彼方に宮殿がある。生まれ育ち、もう二度と帰らない場所。
眩しさに慣れてきて、急いで馬車を降りた。周囲は見渡す限り農地だ。建物はぽつぽつと遠くに見えるだけ。ゆるやかな丘陵地帯なので、丘の向こうに隠れている住居もあるかもしれない。
この姿で歩いていては目立ちすぎる。
長い黒髪は装飾品は付けていない。すべて置いてきた。だけど衣装はそのまま着てくるしかなかった。上半身は淡い水色、胸の上から足首まで覆う濃い水色の布は分量が多く、歩くたびにふわりと広がる。胸元で結んでいる青色の細い帯が風に揺れた。
国都ではなくても、人が多い都なら似た衣装の裕福な娘が歩いているかもしれないが、農村地帯で侍衛も伴わず歩いていては、何者かと怪しまれる。御者に見つかれば呼び止められるかもしれない。
右手を見た。御者が入った店舗だ。土壁に茶色い屋根瓦の平家で、住居の一部を店にしているようだ。横長の看板が入口の上に掛かっている。『
――とにかく、隠れないと。
周囲に身を隠せる場所はない。店舗の裏側に回り、馬車が去るのを待つしかない。
幸い、道に面した窓は閉じたままだった。早足で近づき横に回る。横の窓は開いていた。姿を見られないよう身を屈め、ゆっくりと進む。足元は土なので音はたたない。裏手にたどり着いて、ほっと息を吐いた。
建物の裏側も畑が広がっていた。
風に微かに揺れる葉や、控えめに咲く小さな花。
馬車が止まった道路の左側やその向こうは、小麦や野菜畑だったが、この建物の周囲だけさまざまな香草の畑になっている。
母と一緒に後宮内の菜園を散歩するのが楽しみで、植物の名前や特徴を庭師に教えてもらった。だから多少の知識はある。
すぐ目の前にあるのは
店の料理用に栽培しているのだろうか。
そう思ったけれど、さきほどの返答を思い出す。お茶しかない、と言っていた。
料理を出さないのなら、たくさんの香草は何に使っているのだろう。鑑賞用なら、もっと大きくて華やかな花を植える方が映える。
扉が開く音がした。
御者が休憩を終えたのだ。
耳を澄まし、馬車が遠ざかっていく音を聞いた。
――良かった。まずは脱出成功。
さて、これからどこへ向かえばいいのか。
仕事を探すなら、もう少し人が多い所に行った方がいい。だけど日が暮れるまでに徒歩で辿り着けるのだろうか。どこに都があるのかもわからない状態で。
馬車が向かった先ではなく、道を戻った方が良いだろう。来た道の方が首都寄りだ。遠ざかるほど人口は少なくなるはず。
歩き出そうとしたときだった。
後方で、がさりと草を踏む音。
――店主が来た?
一気に血の気が引いた。
建物の横を歩いてきているのなら、逆側に回って正面に出れば見つからない。駆け出した瞬間、からまっていた草に足を取られて転倒した。
「いっ……」
声を上げそうになるのをこらえた。うつ伏せになった身体を慌てて起こしたが、遅かった。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
背後からの声。
見つかった――。
目を固く瞑る。
声から想像するに初老の男性だ。走れば逃れられるかもしれないが、老いても元気な男性なら追いつかれる。
どうしよう。
心配そうな声音からすると、悪い人ではないかもしれない。
何より、聞いたことがある声によく似ている。とても優しい人だった。
座り込んだまま、ゆっくり振り返った。
白髪の老人が立っている。
「……聖華公主様?」
目を見開き、見つめ合う。
「……柳さん?」
「公主様が、なぜこのようなところに……」
まるで幻を見ているかのような表情。それはそうだ。公主が生まれ育った後宮を離れて一人でいるはずがない。あるはずがないことが、今起きている。
真実を話すしかない。
柳さんなら、後宮に突き出したりはしないだろう。
意を決して、深く息を吐いた。
「後宮を抜け出してきました」
「……抜け出す? 一時的にということですか」
「遺書のような手紙を残し、無人の小屋で火事を起こしました。侍女の協力で荷車に潜み、さきほど降りたところです。聖華公主は死んだということに今頃はなっているはずです」
柳さんは呆然として言葉を失っている。
後宮に突き出したりはしなくても、帰るよう促すかもしれない。後宮育ちの公主が外で生きていくのは無理だと。拒んでも、宮殿勤めだったころの知人と密かに連絡を取り、迎えの人間を寄越すかもしれない。そうなったらすべて終わりだ。
この数年で感情を表情に出すのが苦手になった私だけれど、必死の形相を精一杯作り、訴えた。
「皇后の命令を受けた者が部屋に入り込み、私の顔を深く傷つけようとしました。このままだと命も危ないかもしれないと思い、急きょ出ることにしたのです」
柳さんの顔つきが変わった。
理解した、というような。
三年ほど前に柳さんは高齢を理由に庭師を辞めて故郷に帰った。それまでは母親亡き後の私が孤立していく姿を見ていただろう。
憐れむような目。近づいてきて、視線の高さを合わせるように膝をついた。
「それは、お辛かったですね」
こわばっていた心が緩んでいく。
ずっと緊張状態にあったのだと、今になって気づいた。
「聖華公主様、先を急いでいるのでなければ、我が家で休まれてはいかがですか。ずっと馬車に揺られていたのでしたらお疲れでしょう」
「……よろしいのですか」
公主が亡くなったことになれば、追手が来ることはないが、面倒なことに関わりたくないと思われても致し方ないのに。
柳さんは大きく頷いた。
「もちろんです。何もせず公主様を放り出すようなことをすれば、賢妃様もお嘆きになるでしょう。天から見守っているはずです」
庭園を散策する母娘の問いかけに、いつも丁寧に答えてくれた柳さん。今でもよくあのときの光景を思い出す。さまざまな植物の知識が増えていくのが楽しかった。
母と形見の腕輪がここに導いてくれたのだろうか。
腕輪にそっと触れてから、頭を下げた。
「休憩させていただけますか」
「頭を下げることなどありません。さあ、どうぞお立ちになって、粗末な家ですがお休みください」
頷いて、立ち上がった。
両開きの扉を開けて、建物の中に入った。正面にも同じような扉があるが閉じられている。外の壁際を通った感じからすると、もっと奥行きがあるはず。扉の向こうにも部屋があるか、中庭を囲む形かもしれない。
左側に卓が三つ。壁沿いに等間隔で並んでいる。右側には縦長の机があり、背もたれのない椅子が三脚並んでいた。長机の向こう側が調理場で、背後の棚には壺や食器がたくさん並んでいる。
「どうぞ、お好きな場所に座ってください。硬い椅子で申し訳ないですが」
私は首を横に振った。
「椅子に座って休めるだけでもありがたいです。ここに来るまで麻袋に包まれて荷台に座っていたことを思えば快適です」
柳さんは目を見開いた。
「麻袋に包まれて?」
「はい」
「天から賢妃様が見ていたら、さぞかし驚いたでしょうね」
「そうですね」
目を見合わせて笑った。
柳さんは長机の向こうにある調理場に回った。横の壁際にある
柳さんは六十歳ぐらいだろうか。年齢を聞いたことはない。庭師で外の作業が多かったからか肌は日焼けしている。顔立ちも表情も控えめで、穏やかだ。薄茶色の上衣は長袖で丈が短い。下衣も同色の麻製だ。棚から白い磁器の蓋碗を選び、調理台に置いた。
「この店は柳さんがおひとりで営んでいるのですか」
「営むというほどでもないんです。店を切り盛りしてた妻、
それで今は茶だけ提供しているのか。
「……そうでしたか。お寂しいですね」
どんな言葉も慰めにはならないだろう。
「いえ、公主様こそ、まだお若いのにお母上を亡くされた。悲しみはいかばかりか。私は宮廷勤めを辞めて故郷に戻りましたが、最後に短い間とはいえ妻の夢を叶えられた。幸せな人生でした」
幸せな人生とは、妻のことを言っているのか、柳さん自身のことなのか。もし後者なら、過去形になっているのが気になった。柳さんの人生はまだまだ続くはずだ。
「庭にはたくさん香草がありますね」
「はい、私はそちらの方が仕事みたいなもので。都の市場に卸して、ささやかですが収入を得ています。でも庭仕事をしながら茶坊を営むのは難しく、滅多に来ない客に茶を出すのがやっとです」
柳さんは苦笑した。
庭で香草を育てる夫と、茶坊で客をもてなす妻。幸せな光景が目に浮かぶ。この店で客がゆったりとくつろぐ姿も。
だけど今は、それも幻だ。
店は時が止まりかけている。
妻の夢だった茶坊。
失いたくはないはず。
突然、目に見えない大きな扉が開いた気がした。
母は言っていた。私の夢は自分の茶坊を持つことだったの、と。
後宮入りが決まったのは突然で、それまでは茶坊で働いていた。自分の店を持つまでの勉強として、働きながら茶や点心のことを学んだのだと。そのことを教えてくれたときの光景と会話を、頭の中で反芻した。
「茶坊で働いていた……って、母上は良いところのお嬢様だったのでしょう? 働いたりはしないのでは」
母は周囲を見回した。侍女は扉の前で控えているので、部屋には二人しかいない。それでも内緒話のように、寝台で隣に座る私の耳元に顔を寄せて、ささやいた。
「私は転生者なの」
「……転生者? 母上が?」
母は大きく頷いた。
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