第19話 笑顔の季節へ

「……テスト返却、以上でーす」


担任の長岡先生が言い終えると、教室全体にふわっと空気が抜けた。


静かな開放感。

夏の光。

窓の外ではセミが鳴いていて、風に揺れるカーテンがゆったりと踊っていた。


「終わったぁー……」


あやめが机に突っ伏し、顔を上げないまま声を漏らす。


「ふふ、予想より点数よかったんでしょ?」


隣の詩織が笑いながら言う。


「よかったけど、もはやそれより“解放感”が勝つ!」


蓮が椅子を後ろに引きながら、机を軽く叩いた。


「よし、夏だしさ、夏休み入ったらどっか行こうぜ」


「どっかって、どこ〜?」


「やっぱ海でしょ、夏っつったら」


「日焼けやだ……でも海行きたい……!」


「水着買わなきゃ」


「浮き輪も忘れずにね!」


「ビーチサンダルも買い換えたいなあ〜」


「絶対スイカ持ってこうよ、スイカ!」


次々と会話が弾む。

教室が、ちょっとした旅行会社のパンフレットコーナーみたいになっていく。


そんな中で、空は席でゆっくりと教科書を閉じていた。


教卓の上に返された答案用紙をまとめながら、ふと隣の席に目をやる。

蓮が微笑んでいる。

あやめはすでに机の上に突っ伏したまま、ペンでノートに何か描いていた。


「……楽しそうだね」


空は振り向き、微笑んでいた。

自然と口をついて出たその言葉に、自分でも驚く。

その笑顔は、誰もが驚くほど“柔らかかった”。


「空も行くだろ?海!」


「……うん。行く」


短く答える。

けれど、それだけで十分だった。


「やった! 決まり!」


「空くんが行くって言ったならもう、行くしかないじゃん〜」


あやめが嬉しそうに笑う。

詩織もそれに続いて、「楽しみだね」と目を細めた。

穂積も「空が来るなら、安心できるな」とうなずく。


蓮が指を立てる。


「じゃ、来週末で調整な。で、その前に——グッズ、揃えとこうぜ」


「え、水着とか?浮き輪も?ビーチボールも!?」


「全部な。今のうちに買い出ししないと絶対混む」


「週末、みんなで買い出し行こうよ〜」


「……いいね」


空がそう答えると、場の空気が“本当に始まる”感じでふくらんでいく。


そこには、違和感のかけらもなかった。


(こういう会話の輪の中に、自分が自然にいる)

(なんてことない時間が……今、すごくうれしい)


コウが、黒板の上からそっと空を見下ろしていた。

その顔には、まるで親のようなやさしい笑みが浮かんでいた。


「……いいな、お前。ちゃんと笑えてる」


外ではセミの声が鳴いていた。


夏が、来ていた。


放課後の廊下には、柔らかな陽の光が差し込んでいた。


セミの声が遠くから聞こえてくる。

校舎の中には、まだ授業の余韻と、夏の始まりのざわめきが静かに漂っていた。


「おっしゃー、計画立てるぞー」


蓮の声が、階段の下から響いてくる。

教室を出た空は、廊下の手すり越しに、先に降りた友人たちの姿を見つけた。


穂積が手帳を開きながら「週末なら土曜午後が動きやすい」と言い、あやめが「私も日曜より土曜がいいなー」と言いながら階段を三段飛ばしで駆け上がってきた。


「空くんは?土曜空いてる?」


あやめの問いに、空は一瞬だけ考えてから答えた。


「うん、大丈夫。予定はないよ」


「よっしゃー!決まり!」


あやめは両腕を伸ばして伸びをする。

「じゃあ、駅前のショッピングモールね!浮き輪と水着と……あとなんだっけ」


「日焼け止め」「ビーチサンダル」「タオル系」「ラッシュガード」「防水ケース」


「……すごい、詩織ちゃん、ぬかりない」


「準備は計画のうちだから」


穂積がメモを取りながら言う。

「あと蓮、スイカはどこで仕入れる予定なんだ?」


「えっ、マジでスイカやるの?」


「いや、やろうよ。せっかくだし」


「じゃあ俺、スイカ担当。任せろ」


そのやり取りを、空は少し後ろから見ていた。


(不思議だ。笑ってる彼らを見ていると……自然と、自分も笑えてくる)


ついこの間の自分では、考えられない。

誰かの笑顔に、素直に心が動くようになった。

笑うことが、怖くなくなった。


「空ー?何ぼーっとしてんの、行くよ〜」


詩織が手を振っている。


「うん、行こう」


言いながら、空の足取りは軽かった。


「楽しみだね、週末」


「うん。……買い出しに行くのが、こんなにワクワクするとは思わなかった」


詩織は微笑んだ。


「ね、そういうの、大事だと思うよ」


「……何が?」


「“楽しみにする”っていう気持ち。それがあるだけで、毎日がちょっと明るくなるから」


空は、その言葉を心の中でゆっくりと反芻した。


(“楽しみにする気持ち”……今の自分には、確かにそれがある)


今までの自分は、いつも“起こったこと”に対処するだけだった。

でも今は、“これから”を考えている。


その違いが、こんなにも胸を温かくするなんて。


「……詩織」


「ん?」


「ありがとう」


「え?」


「なんか……君と話してると、未来のことがちゃんと“楽しそうに”見える」


詩織は驚いたように目を見開き、すぐにやわらかな笑みを浮かべた。


「……それは、こっちの台詞かもしれないよ」


廊下の窓から、夕陽が差し込む。

影が伸びて、空と詩織の足元を重ねる。


そのすぐ後ろ、コウがくるくると回転しながら浮かんできた。


「週末、楽しみだな〜。空の水着選び、俺も口出すぞ?」


「……派手なのはやめてくれ」


「いやー、サメ柄とかどう?背びれ付きのやつ!」


「やめろ」


「じゃあホットドッグ柄。着てたら絶対ウケる。てか、詩織ちゃん笑うと思う」


「……本気でやめろ」


コウの悪ノリに呆れながらも、空の表情は笑っていた。


心から、自然に笑えていた。


この瞬間の会話、この帰り道、この光景。


全部が、忘れたくないものだった。


夜。風が少しだけ涼しくなった部屋で、空は机に向かっていた。


窓の外では、街灯がオレンジ色に道を照らしていて、時おり風に乗ってカーテンがふわりと膨らむ。

そのたびに、風鈴がやさしい音を立てた。


空は手帳を開き、ページをめくりながら、今日一日の出来事を振り返っていた。


(……笑ってた)


声に出さなくても、確かに思い出せた。

蓮のはしゃぎっぷり。詩織の穏やかな微笑み。

あやめの騒がしさと、それに乗っかる穂積のボケ。


それらが、ひとつの時間を作っていた。


そして——


その中に、自分も“いた”。


自然に笑えていた。

誰かに合わせたわけでも、無理やり作ったわけでもない。

ただ、気づいたら口元がほぐれていた。


(……前より、笑うってことが“怖くなくなった”な)


空はペンを取って、手帳の土曜の欄に、ゆっくりと書き込んだ。


『週末:買い出し(駅前モール)』

『水着/浮き輪/日焼け止め/楽しみ』


最後の一語を書き終えたとき、自然と息が漏れた。

笑ったわけでもないのに、喉の奥がふるえていた。


「……いい字になったな」


背後から聞こえた声。


「前はもっと細かった。今の字、ちゃんと“太さ”がある」


白いパーカー姿のコウが、ふわりと宙に浮かびながら天井から逆さに現れた。


「字に、感情って出るんだな」


「出るさ。お前の書く“楽しみ”って字、今はちゃんと“前に向いてる”」


空は、ページをもう一度見つめた。


「……前は、予定なんて埋めるだけだった。どこに誰と行くとか、なんの感情もなかった。けど今は、ちょっと違う」


「未来に、“感情”があるってことだ」


コウがぽつりと言う。


「明日が来るのが楽しみで、週末が待ち遠しくて。そういう感覚が、ようやくお前に戻ってきたんだよ」


空は、頷いた。


「……ありがとう。コウがずっと見ててくれたから」


「当然でしょ。俺、守護霊だし」


それは、どこまでもシンプルで。

どこまでもあたたかい言葉だった。


「……あ、そうだ」


コウが思い出したように声を上げる。


「海ってさ、海の家ってあるじゃん?あれって、絶対“青春”の象徴だよな」


「……かき氷食べて、焼きそば食べて、値段高くて文句言って、でも結局買うやつ」


「そうそれ!で、誰かが波に飲まれて叫ぶ」


「それ、あやめの未来が見える」


ふたりで吹き出す。


笑いながら、空は窓を少しだけ開けた。

夜の風が、そっと部屋に入り込む。


「……来週、楽しみだな」


「うん。全力で、楽しめ」


コウがそう言ったとき、空はもう一度手帳を開いて、小さく書き足した。


『楽しみにしてる。』


それは、誰に見せるわけでもない。

でも、未来の自分にとって、大切な言葉だった。


ページのすみには、いつの間にかコウが描いた小さな落書き。

サメ柄の水着を着た空のイラスト。


空は思わず笑って、ペンで小さく“×”を書き添えた。


その笑顔は、もう誰に見られても構わないと思える笑顔だった。

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