第12話 交わる境界、重なる影

校外学習の翌日。

教室に入った空は、真っ先に詩織の姿を探した。


――いた。


中央寄りの席で、詩織はいつものように手帳に何かを記していた。

白いシャツ、整えられた前髪、落ち着いた表情。昨日の異変が嘘だったかのように、そこには“いつもの詩織”がいた。


「……よかった」


空がそう呟いたのと同時に、ふわっと背後から風のような声が囁いた。


「“まだ”だよ」


空はハッと振り返ったが、そこには誰もいなかった。


だが、霊感のない空でさえ、その声が“現実の音”ではないことを理解していた。


授業が始まっても、空はどこか上の空だった。

ノートを取る手が止まり、視線は時折、詩織の背中へ向けられる。


(ほんとうに、無事なんだろうか……)


放課後。

夕暮れの教室。


空が忘れ物を取りに戻ると、教室の窓際に黒い“影”が立っていた。


人の形のようで、けれど完全に人ではない。

それはゆっくりと空に向き直り、言った。


『約束のときだ。森崎空』


「……お前、昨日の……」


『私は出ていく。だが、その代わり、お前が“器”となれ』


「……それが条件なんだな」


『この少女は私を“拒絶”しなかった。ただ受け止めきれなかっただけだ。だが、お前は違う。お前なら、境界を作れる』


その瞬間、空の横にコウが飛び込むように現れた。


「ふざけんなよ!」


コウは叫びながら空と影の間に立ちはだかる。


「お前……空がどんな気持ちでここにいるかわかってんのか!?詩織ちゃんを守りたいって思って、それで……!」


『ならばなおのこと。彼は覚悟を持っている。私はそれを試す』


「空、お前も何か言えよ!こんなのおかしいって、わかってるだろ!?」


空は一瞬、視線を伏せた。


そして、深く息を吸ってから、静かに言った。


「……詩織の体が、また侵されるくらいなら。俺が代わりになる」


「……っ、は……?」


コウの声が震えた。


「このままじゃ、また彼女が苦しむかもしれない。それを知ってて、黙って見てるわけにはいかない」


「……お前、そんなこと言って、どうなっても知らないぞ……?」


「大丈夫。……コウがいるから」


コウは言葉を失ったまま、拳を握りしめた。


黒い影が静かにうなずく。


『明日の夜、彼女が眠る頃。学校裏の旧倉庫に来い。そこを“交わりの場”とする』


そう言い残すと、影は静かに消えた。


沈黙が、教室を包む。


コウはゆっくりと、振り返った。


「……俺、絶対に認めねぇからな。こんな結末。けど……お前が決めたなら、最後まで見届ける」


空は静かに、頷いた。




夜。

月が雲間から顔をのぞかせる頃、森崎空は制服姿のまま、学校の裏手にある旧倉庫の前に立っていた。


校舎裏には、風の音しかない。街灯の届かないその場所は、昼間と同じ空間とは思えないほど、深い沈黙に満ちていた。


「来るんじゃなかったって思っても、もう遅いな」


空はポケットの中の拳を握り直した。


その横に、白いパーカー姿のコウが現れる。


「……ほんとにやるんだな」


「うん」


「やめとけって、何度でも言うぞ」


「それでも俺は、やるよ」


ふっと、コウは鼻を鳴らす。


「ったく、似てきたな……昔の俺に」


倉庫の古びた鉄扉が、ひとりでに開いた。

ぎぃ……という錆びた音が、静寂の中に響く。


中は暗く、古い机と棚が残されたままだ。

月明かりだけが、床の埃を銀色に浮かび上がらせていた。


「ここが“交わりの場”か……」


空が中に足を踏み入れると、扉が音もなく閉じた。

直後、空気がぴたりと止まり、空の前に“黒い影”が現れた。


『約束のときだ、森崎空』


「……来たよ」


『少女は今、眠っている。意識の深層で、お前を待っている。だが今、お前は“私”と繋がらなければならない』


コウが静かに詠唱を始める。

足元には霊的な紋が浮かび上がり、空と影の間に淡い結界が広がった。


「準備は整ってる。やるなら、今だ」


空はゆっくりと目を閉じた。


呼吸を整え、深く深く、意識を落としていく。




黒い空間。

光のない世界の中で、空は“存在だけ”の状態になっていた。


やがて、黒いもやのような塊が近づいてくる。


『お前の意志を確認する。私を、お前の中に迎え入れる覚悟はあるか』


「ある。俺は……詩織を守りたい。そのためなら、怖くても引き受ける」


『……よかろう』


影がゆっくりと空に重なっていく。


冷たい水に沈むような感覚。

心の奥に、何か異物が流れ込んでくる感覚。

だが、空は顔をしかめることなく、ただ受け入れた。


コウの声が遠くから聞こえる。


「意識を保て!全部を飲み込むな、空!!」


『共生だ。私が前に出すぎることはない。お前が“守る意志”を持ち続ける限り』


最後の一滴が心に落ちると同時に、空は、意識の深淵から引き戻された。




再び、旧倉庫の空間。

息を切らしながら、空は床に手をついていた。


「……終わった……のか?」


コウが駆け寄って支える。


「終わった。だが油断すんな。お前の中には“異質なもの”が確かに入った」


空は頷きながら、息を整えた。


そのとき、コウのスマホが震えた。

表示には、「佐久間詩織」の名前。


「……!」


空は即座に受話ボタンを押した。


『……空くん?』


「詩織、大丈夫か!?」


『うん……なんか、いつもよりすっきりしている。体も軽くて……。あのね、目覚めた瞬間、“空くんの声”が聞こえた気がしたの。それで、気になって電話しちゃった』


空は、目を閉じて小さく微笑んだ。


「よかった。本当に……」


詩織の声は、かすかに震えていた。


『ありがとう。……もしかして、私のこと呼んでくれたの?』


「うん……いつでも、呼ぶよ。君の名前を」


その言葉を聞いて、詩織は小さく笑い、通話が途切れた。


倉庫の中には、静寂が戻っていた。

だが、空の心の奥底には、“もうひとつの意識”が確かに潜んでいた。




翌朝。


森崎空は、鏡の前でネクタイを締めていた。

だが、鏡に映る自分の動きが、ほんの一瞬――わずかに“遅れて”いることに気づいた。


「……気のせい、じゃないよな」


背後からふっとコウの気配が差し込んできた。


「空。お前、寝てる間に何か変な夢見なかったか?」


「夢……?うーん……なんか、ひとりで海の底を歩いてる夢だった気がする。すごく静かで、でも……息が苦しくなかった」


コウは腕を組んで眉をひそめた。


「それ、“境界の圧”だ。異界に近づいてる証拠。影のやつ、お前の精神にじわじわ馴染んでいってる」


「……感じてた。昨日から、世界が少しだけ重い」


「表層に染み出す前に、なんとかする方法探さないと。ほんとにまずいことになる」


空は静かにうなずいた。




学校。

朝のHR。


教室の空気は穏やかだった。

空は普段どおり席に着き、いつものように教科書を開いた。


けれど、視界の端で“妙な違和感”があった。


隣の席のあやめがノートをめくった瞬間――その紙が“波打つように”遅れて見えた。


次の瞬間、空の耳に、微かに聞こえる“ざわざわ”という音。


(これは……外じゃない。俺の中から……)


「……っ」


思わず机に手をついた。


「空くん、大丈夫?」


詩織が心配そうに覗き込む。


「うん、大丈夫……ちょっと寝不足なだけだから」


詩織はそれ以上追及せず、優しく笑った。


その笑顔が、空をかろうじて地上に繋ぎとめていた。




放課後。

屋上。


コウが真剣な顔で空の前に立つ。


「影の力、少しずつ表層に滲み出してる。今はまだ“ノイズ”レベルだけど、このまま放っといたら、人格の“輪郭”ごと塗り替えられる」


「……俺の中で、誰かが“目を覚まそうとしてる”感覚がある」


「本来なら、あの影は“意識の深層”で眠らせたままのはずだった。でも、お前の“器”が素直すぎて、影が安心して侵食を進めてる」


「……安心されるのって、なんか皮肉だな」


「笑い事じゃねぇ。空、これはマジで危険なんだ」


コウの瞳には、珍しく焦りがにじんでいた。


「俺、霊界にツテがある。今夜、方法を探る。お前を壊さないための“切り離し”か、“封印”か、“相殺”か……どれか、見つけてくる」


空はしばらく黙った後、ぽつりと呟いた。


「でも、もし僕が……“僕じゃなくなった”ら。そのときは、迷わず、止めてくれ」


コウはきっぱりと言った。


「それはない。絶対に、そうさせねぇ。そのために俺がいる」


風が、初夏の匂いを含んで吹き抜けた。


空は空を見上げた。

だが、自分の影が、屋上の柵にほんの少し“逆らうような向き”で伸びていることに、気づいてしまった。


静かに、確実に。

彼の中に、影は息づいていた。

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