壊された夢の中で
接続から、ちょうど8時間が経過した。
《EDEN》内部の生命兆候は安定している。心拍数、脳波、血中酸素濃度。
どれも臨界値からは程遠い。
だが、その“安定”は――現実への帰還を放棄したことの証でもあった。
有村は戻ってこようとしない。
議論は、6時間目あたりから始まっていた。最初は声をひそめていたが、
次第にその重さが場を圧し、誰もが認識せざるを得なくなった。
「このまま接続を続ければ、彼の脳は“あちら側”を唯一の現実と記憶するようになる」
白瀬が冷静に告げた。
「神経同調プロトコルはすでに固定化モードに入ってる。
“出口”の概念自体が彼の認識から消えていくわ。
今日、今、切断しなければ、本当に二度と戻れなくなる」
「それでも……あれだけ幸せそうだったんだぞ」
三輪が呟くように言った。
「俺には、止める勇気がない」
「これは勇気の問題じゃない」
天城が口を挟む。
「倫理だわ。彼は正式な任意被験者として入ったけど、帰還しないという合意はなかった。
記録上の条件を満たせば、こちらには強制終了の責任がある」
「それは、本人の意思より重いのか?」
誰かがそう問いかけたが、返事はなかった。
最終決定は、天城の手でなされた。彼女の指がセキュリティ端末に触れる。
《EDEN》制御画面に赤い確認ウィンドウが浮かぶ。
――「ログアウト命令を実行しますか?」
「……はい」
指が静かに、しかし確かに押された。
接続断は突然だった。外部からのインパルスによって神経リンクが遮断され、
有村の意識は仮想空間から強制的に引き戻される。
装置のシールドが音もなく開き、冷気と共に彼の身体が現れる。
数秒の沈黙のあと、彼のまぶたがぴくりと動いた。
「…………あ」
初めての呼吸が漏れるように漏れた。
「有村さん……」
白瀬が近づこうとした瞬間、彼の身体が跳ねるように起き上がった。
「……どうして、戻したんだ」
その声は怒声ではなかった。責める調子でもなかった。
ただ、深い、深い悲しみだけが宿っていた。
「どうして……どうして、あんな夢を壊したんだよ……!」
彼の手がヘルメットの中空をかきむしる。すでに装置は停止している。
けれど彼の目はまだ仮想の景色を追い続けていた。
「彼女は……そこにいたんだ……! 本当に、そこに……っ」
涙が、頬を伝った。
「俺は、あのままでよかったんだ。戻る必要なんてなかった。どうして……どうして……!」
白瀬は立ち尽くしていた。止める言葉も、慰める言葉も浮かばなかった。
彼女が設計した幸福が、彼を傷つける刃になっていた。
「有村さん……今は、医療室に」
天城が一歩踏み出すが、彼は拒絶するように顔を伏せた。
「俺は……また、戻る。必ず。今度は、誰にも邪魔されないように……」
誰かが息を呑んだ。だが誰も、それを否定できなかった。
彼の脳波は、今なお異常を示していない。
情動反応は極端に高ぶっているが、それでも“正常”の範囲内に収まっている。
――つまり、彼は正気だ。
正気のまま、仮想に戻りたいと願っている。
一条はただ1人、静かにその場を見守っていた。
「記録は、止めるな」
彼は低く言った。
「彼のこの言葉も、感情も、涙も
――すべて、人類が《EDEN》とどう向き合うべきかを決める“証拠”になる」
その言葉に、誰も異論を挟めなかった。
有村は、いまだ夢の名残を引きずりながら、冷たい床に手をついた。
そして――もう一度、涙を流した。
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