完全VR:First Diver
技術コモン
最初の一歩
密閉された白い試験室に、わずかな機械音が鳴っていた。
中央に鎮座する球体型VR接続装置 《EDEN》は、起動音もなく静かに開かれていた。
その周囲に立つ8人の男女は、誰もがこの瞬間を夢見てきた開発者であり、
研究者であり、そして観察者だった。
「……ついに、来たな」
一条煉が小さく呟いた。グレーのスーツに身を包み、
冷静さを保つ彼はこのプロジェクトの統括責任者であり、最古参の開発者でもあった。
彼の声には、歓喜ではなく、まるで祭壇の前に立った神官のような畏敬が滲んでいた。
誰も言葉を返さない。
天井のスクリーンには、初期接続試験の準備状態が映し出されている。
神経同調プロトコルはすでに稼働しており、接続者が視る世界、感じる感覚、
感情の揺れまでもリアルタイムで外部に可視化される。
「さて……被験者は、誰にする?」
榊原誠也が口を開いた。彼の手には神経リンクの診断データが収まったタブレット。
眼鏡の奥の目は冴えていたが、その声にはわずかに震えがあった。
「公平にジャンケンか?」
三輪崇志が苦笑混じりに言った。彼の目は装置よりも、
その奥にある“まだ誰も見たことのない風景”を夢想していた。
「ジャンケンで命を懸けろっての?」
岸本朱音が鋭く切り返す。「命」ではなく「現実」を、だ。
けれど彼女の言葉は空気を凍らせた。
EDENは完全没入型。内臓感覚、時間知覚、五感のすべてが現実と等価に制御される。
そこでは、痛みも幸福も、記憶すら現実と同じように感じられる。
そして――自力でのログアウトはできない。外部からの介入が唯一の出口。
その瞬間、天城美沙が前に出た。
「倫理的には、統括者以外の全員を事前合意なしに投下するのは問題がある。
自発的志願者が出るまでは凍結すべきだわ」
誰も反論しなかった。だが、誰も名乗り出なかった。
有村響介が、ぽつりと呟く。
「……中の映像は見えるんだよな。入ったら、どんな世界が待ってるのか」
その言葉に、白瀬瑠衣の目が揺れた。
彼女はこの仮想空間に「幸福な人生の構造モデル」を実装していた。
接続者の潜在欲求を読み取り、理想の風景と体験を生成する「感性適応アルゴリズム」。
それがEDENの核でもあった。
「一度入れば、きっと出たくなくなるわ。自分で創ったのに、怖いと思ってる……」
「それが一番怖いことだな」
深町梓が低く言った。
「現実を忘れるほどの快楽に、人間が抗えると思うか?」
空気が重くなる。
全員が、自分たちの手で「現実の代替物」を作り出したことを理解している。
そしてその代替物が「本物」になるかもしれないことを恐れていた。
一条煉が、静かに手を挙げた。
「順番は決めなくていい。今日は接続直前までの最終確認とする。
だが明日の朝、名乗り出た者がいなければ、私が入る」
彼の瞳は、EDENに向かって真っ直ぐだった。
無音の室内で、誰かが唾を飲む音が聞こえた。
《現実崩壊境界》。それは数値ではなく、感覚の敷居。
その一線を超えた者は、もうこちら側に戻ってこないかもしれない。
だからこそ、それでも“最初の一人”は必要だった。
人類が新たな現実に足を踏み入れるための――名もなき一歩。
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