聖女と魔女

立青之

第1話 聖女の巡礼と魔女の珈琲


 桃陰とういん高校には聖女がいる。


 二年A組 無悪さかなし 乙輪おとわ

 ピンと背筋を伸ばした姿勢に目を惹かれる。威圧感はない。神の意思の代弁者ではなく、神の慈愛を伝えてくれるような佇まい。

 白地に襟とスカートがほぼ黒に近い濃緑色のセーラー服を、すらりとした長身にまとっている。

 艶やかで美しい髪が背中に流れている。

 切れ長の瞳からは、全てを優しく包み込むような眼差しが絶えず向けられている。


 乙輪の登校風景はいつからか「聖女の巡礼」と呼ばれるようになった。

 始業時間の約三十分前、校舎の一階にある職員室前の廊下に教師たちが出てきて二列で並ぶ。

 老若男女を問わず、彼らは疲労や不調を持った大人たちである。教師とはそういうものである。

「おはようございます」

 涼やかな挨拶と共に廊下に乙輪が現れる。静かに、しかし軽やかに教師たちの間を歩いていく。

 桃色の唇は柔らかな微笑みを湛えている。

 乙輪はただ微笑みながら歩いていくだけ。

 それだけ。時間にして三十秒ほどのできごと。

 それなのに、どんよりとしていた教師たちの顔は晴れやかになっている。

「腰が軽くなった」

「目のカスミが取れた」

「二日酔いがすっきりした」

「寝不足が解消された」

「腹具合が収まってきた」

「肩が上がるようになった」

「のどのイガイガが消えた」などなど―――。

 それぞれの不調が治まった気がする。

 満足げに笑いあいながら職員室に戻っていく。「今日も、今週も頑張りましょう」とか言ってしまっている。


 一方の乙輪は階段を登り、二階にある一年生の教室の前を巡っていく。美人の上級生にちらちらと目を向けるものはいるが、廊下で待っていたり話しかけたりしてくる剛の者はいない。

 階を一つ上がると二年生の教室が並んでいる。乙輪と同級生と言うこともあり、彼女に声を掛けてくる者は多い。しかしあくまでも挨拶程度であり、彼女を引き留めたりはしない。

 最上階では大勢の三年生たちが待ち受けていて、廊下がごった返している。

 受験勉強で疲れ果てている者。

 高校生活最後の大会に日々練習を重ねる体育会系の者。

 夜勤バイトのやりすぎで寝不足の者。

 彼らは一縷の望みをかけて、彼女に群がろうとする。


 ゾンビのような彼らの前に、一人の少女が立ちふさがる。

 一年A組 安倍 晴子。小柄な体から元気が溢れ出しそうな表情をしている。右に分けた前髪を赤い髪飾りで止めている。

 晴子は先日、乙輪に命を救われたことから、勝手に聖女の従者を自称し、付き従うようになった。


「はーい、道を開けてくださーい。通りまーす。道を開けてくださーい」

 キビキビとした動きと溌溂とした声で、瞬く間に最上級生たちを退ける。

 乙輪は晴子が切り開いた道を歩いていく。

 三年生たちはその姿をすがるような眼で眺めて、そして祈る。

 その中を乙輪は一切立ち止まることはない。歩く速度を全く変えずに廊下を通っていくだけ。時折、挨拶を返すだけ。

 それだけであるが、乙輪が通り過ぎると、生徒たちは満足げな顔でそれぞれの教室へ、学生生活に戻っていく。


 校舎の端には特別教室がある。四階にあるのは視聴覚室と科学室である。三年生の教室の前を通り過ぎた乙輪は視聴覚室、科学室の前を通り過ぎ、一番奥にある科学準備室の前で立ち止まった。

 晴子がすっと前に出て、科学準備室の扉をガンガンとノックして、中からの返事を待たずに勢いよく開けた。

 そこには小柄な少女が腕を組んで立っていた。睨んでくる顔は晴子によく似ている。

 晴子の双子の妹の安部 明子である。前髪を左に分けて青い髪飾りで止めている。

「勝手に入ってくるなって言ってんだろ!」

 妹は姉に向かって怒鳴る。

「ノックしただろうが!」

 姉も怒鳴り返す。

「それじゃ不十分だって言ってんだよ!ノックしたら、許可が出てから入るんだよ!」

「なんで聖女様がお前の許可なんか取らなきゃいけねえんだよ!」

「私じゃなくて魔女様の許可だよ。何回言ったら分かんだボケ!」

「ボケはどっちだこら!どこ中だてめえ!」

同中おなちゅうだってことも忘れたのかボケ!」


「そういうの、もう良いから」

 じゃれ合っている双子の間に乙輪は強引に介入する。

 双子を力任せに脇に追いやると、乙輪は準備室に足を踏み入れた。

 両側の壁際の棚には科学実験で使用する様々な器具や機器が並べられている。奥にある窓には分厚いカーテンがかけられているが、照明が付いているので部屋は暗くない。窓の前には実験台が置かれている。

香ばしい匂いがふわっと漂ってきた。


「おはよう」

 実験台の向こうに座る長身の女生徒が意味ありげに笑顔で挨拶してくる。


 二年Ⅾ組 丘上おかうえ 輝夜かぐや

 意志が強そうな大きな瞳の上に金属フレームの丸メガネをかけている。編み込んだ黒髪を頭の横左右に三本ずつ垂らしている個性的なヘアスタイル。制服の上に白い実験着……を暗い色で染め上げたような黒衣を纏っている。

 昨年、校内外で上げた様々な実績により、この科学準備室を占拠することを学校に暗に認めさせた天才少女である。黒衣を纏っていること、隈で目の下が黒いことがしばしばあることからマッドサイエンティストとか魔女とか呼ばれている。


「おはよ」

 先ほどまでの聖女然とした清楚で落ち着いたイメージが脱ぎ捨てられた。乙輪は丸椅子をガタガタと引きずって実験台の前に座り、鞄をどかっと床に下した。

 そしてぐったりと上半身を実験台に横たえる。

「お疲れさま。今日はいつもより疲れているように見えるな」

 輝夜はマグカップに入れたコーヒーを差し出した。

「ありがと」

 体を起こさずに一口すすった乙輪は「にがっ」と舌を出した。

「やっぱり月曜日が一番しんどいなー」と愚痴る。

「休み明けなのにかい?」

「土日だからって寝て過ごす人ばかりじゃないでしょ。みんな休んでないんだよ。あんただって隈がひどいし、徹夜で研究していたんでしょ」

「徹夜で研究しているのは週末に限った話じゃーない。まぁ……、この週末はいつもより頑張ったかもしれないな」

 輝夜が話している間に、彼女の目の下の隈はどんどんと薄くなっていく。

 教師や生徒たちが身体の調子が良くなったと感じたのは錯覚ではない。乙輪の治癒の力で癒していたのである。

 大仰な身振りをしたり、長ったらしい呪文を唱えたりしなくても、乙輪は自由にその力は振るうことができる。


「でも、普通は金曜日が一番疲れているんじゃないんですか?」

 入口に晴子と並んで立っている明子が質問する。

「普通はそうだろうけど……、この学校の人は毎日私の祝福を受けているでしょ。だから金曜日だって木曜日分、一日分しか疲れていないのよ。月曜日は、土日に私の祝福を受けていないから、二日分、三日分?疲れているってこと」

「平日に疲れが溜まらないなら、土日を寝て過ごす必要もない。充実した休日を過ごせるだろうな」

「なるほど、それもあるか」

 結果として月曜日が一番疲れているので、乙輪がみんなを癒すために使う力の量も多くなるのだ。

「自業自得だな」

「なにそれ。納得いかないんですけど」

 嫌味っぽく笑う輝夜に、乙輪は憮然とする。


「でも、聖女様がみんなに祝福を与えたおかげで、みんなが幸せに、健康になるのであれば、それは聖女様の望みどおりなのではないですか?」

 晴子がおずおずと訊ねる。

「ちがうちがう」

乙輪は肘をついて体を起こすと、勢いよく手を振って否定した。

「私が学校の人に祝福を与えているのは、みんなではなくて、私が幸せに平穏に暮らすためよ」

 少し考えてから言葉を続ける。

「人って疲れていたり余裕がなかったりすると、他人を思いやることができなくなって、つらく当たったりしがちでしょ。みんなが疲れていたら、私に直接被害が及ばなくても、みんなが傷つけあって、巡り巡って私が八つ当たりされたりするかもしれない。でもみんなが健康でいられれば、ちょっとむかつくことがあっても許せるだろうし、他人を羨ましがったり僻んだりして、危害を与えようとか嫌がらせをしようとか思うことが少なくなる……かもしれない」

「健全な肉体には健全な精神が宿るってやつですねっ」

 晴子は嬉しそうにガッツポーズをする。

「それそれ。みんなが健全健康であることによって、私が平穏無事な学生生活を送れるようにしているの」

「ふーん。乙(おと)は平穏無事を望んでいるのか?」

 輝夜が意外そうな顔をする。

「望むわよ。だって前世では勇者と一緒に魔王と闘って死んだのよ。異世界転生して、魔王がいない世界に来たんだから、今度は闘いなんて関係なくのんびりと暮らしたいって思うでしょ」


 乙輪には、聖女カタリナとして勇者と一緒に魔族と闘っていたという前世の記憶がある。この部屋にいるメンバーにはそれを明かしている。異世界転生をして、この世で乙輪としての産まれかえった。

 信じるかどうかは人次第だろうが、彼女の持つ治癒能力を見れば、真実だとも思える。


 信じる理由がもう一つある。


「魔女様がいる世界ですけどね」

 明子が探るような眼をする。


 輝夜も異世界転生者なのだ。

 魔物の国の王として君臨し、人間に殺され、この世に転生した。一年ほど前に前世の記憶を取り戻し、この世でも魔法が使えるようになった。

 聖女と魔女が二人揃えば、ファンタジーのようなお話でも信憑性が高くなる。


 姉の晴子が乙輪に命を救われたのと時を同じくして、明子は輝夜に命を救われた。それから、明子は魔女の同士として活動を共にするようになった。


「そうね」

 乙輪は晴子の挑発におどけながら、降参と両手を上げる。

「私は、魔王と闘ったって言っても、回復役で戦闘力はないしね。魔王として人間たちを恐怖させていた輝夜がその気なったら、私はなにもできないわ。されるがままに平穏無事な生活を壊されるだけ」

「と思わせておいて、後ろからぐさりと刺しにくるのが人間の常套手段だ」

 ぶっそうなことを笑いながら言う輝夜に、乙輪は頬を膨らませる。

「私がそんなことをすると思うの?」

「思ってないよ。ただの経験談だ。ただ、前世のボクは何度もそんなことをされている間に逃げきれなくなって殺されたって話」

「なのにあんたは平穏無事を望まないの?また血みどろの道を進むの?」

「魔女エウラリアが望んでいるのは、人間への復讐だよ」

 輝夜は顔の高さまで上げた右手を、開いたり閉じたりする。

「でも、丘上輝夜の心は決まっていない。今、確かなのは、魔法に興味があるってこと」

「私の平穏無事な学生生活が破られないことを祈ってる。にがっ」


 乙輪がコーヒーを飲み干したところで予鈴が鳴った。

「お先に失礼します」

「失礼します」

 教室が遠い一年生姉妹が部屋から飛び出していった。


 実験台の端には小さな流し台が付いており、その中には水が張られた洗い桶がある。ぽちゃんとマグカップを入れる。

 すると洗い桶がブクブクと泡で満たされた。横に置かれていたスポンジが荒い桶の中に突っ込み、マグカップを洗う。現れたマグカップが空中に浮かび上がると、自動で蛇口から水が流れ、マグカップをすすいだ。洗い終わったマグカップは、ふわりと水切りカゴに納まった。


「凄い」

 一連の動作を見守っていた乙輪は、マグカップが水切りカゴにキレイに置かれたのを見て、称賛の拍手をした。

「これも魔法なのよね」

「ああ。土日ずっと考えていたんだ。うまくいって良かった」

 安堵の表情を見せる輝夜に、乙輪は少し意地悪な視線を向ける。

「あら。日曜日の朝、逃走していたコンビニ強盗が乗っていた車が雷に打たれて急停車したおかげで逮捕されたのって、あなたの仕業じゃなかったの?」

 晴天にもかかわらず、突然落ちてきた雷の原理は謎だと、ニュースで報じられている。

「あれは……、あの程度のことなら考えながらだってできる」

 輝夜は焦りながら答える。

「それに、生活魔法は苦手なんじゃなかったっけ?」

「そうだけど、マグカップが放課後までこのままなのが気になっていたんだ」

「私がいつも洗わずに出ていくのが悪いってことね」

「そうじゃないけど……」

 乙輪は怪しく笑い、輝夜は慌てた顔を見せる。

「分かってるわよ。私のためにありがとう」

 乙輪は髪を靡かせ、出口へ向かう。

 扉に鍵をかけた輝夜は小走りで先を行く乙輪を追いかける。その途中で手を振ると、纏っていた黒い実験着が消えて制服姿になる。

「乙」

 乙輪は足を止めて振り返る。優しく微笑みながら。

「ごめん」

「怒ってないってば」

 そう言って聖女は魔女の手を取った。

「一緒に行きましょう」

「恥ずかしい」

 そう言いながらも手を振り払うことはない。

「あら、魔女様はこういうの苦手かしら?」

「苦手」

「私は好きなんだけどな」


 手を繋ぐのが好きなのか?人をからかうのが好きなのか?

 その答えを確認しないまま、聖女と魔女、相反する運命に縛られた二人は、手を繋いで歩いていった。


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