第25話 ペアン
ペアンの先端が、細く震えながら人工気道のカニューレに触れる。
「……固定よし」
葵は声を漏らしながら、術後管理中の陽翔の気管に挿入されたチューブを確認していた。
「少しでも動かすと危険……この子の命綱なのよ……」
彼女の手には、ICUで常備されるペアン鉗子。金属の冷たい感触は、今や彼女の延長のような存在だった。
そのとき――
「――葵!」
矢吹が駆け込んできた。額には汗。目の奥が強く光っていた。
「第二ICUで新たな感染者だ。搬送中の隊員が倒れた。ウィルス、変異してるかもしれない」
「変異……!? まだ治療法も確立してないのに……」
葵は即座に動き出す。ペアンをトレイに置き、防護服を身に着け始めた。
「血液サンプルは?」
「もう取ってある。だが……その患者、口から“芹沢”の名をつぶやいていたそうだ」
「――小夜子……」
芹沢小夜子。かつてウイルス学の権威として知られた女科学者。貧乳愛好連盟、P.L.L.の内部で兵器級ウィルスの設計に携わっていた、矢吹のかつての盟友――いや、今や最大の敵だった。
◆
P.L.L.の研究所跡地。東京都某所、廃工場の地下。
そこでは、今も実験が続けられていた。
「また感染率が上がったわね……ふふ……人間は、恐怖と混乱の中でこそ進化するのよ」
白衣をまとい、メスを弄ぶようにくるくると回していた女、それが芹沢小夜子だった。
「“第二段階”を発動しましょう。“夢潰し”のフェーズへ」
そして、彼女の背後のモニターに映し出された一枚の画像――
橘葵のIDカード写真。
「あなたが“夢”を守るというなら、私はそれを科学的に破壊する。あなたの存在が、あたしの“戦利品”になるのよ」
◆
翌日、病院の地下備蓄倉庫にて。
葵は警戒レベルの引き上げに伴い、防護物資の点検をしていた。だが、その倉庫の隅にあった古い医療トランクを開けたとき、彼女は言葉を失った。
「これは……手術用の……旧式のペアン……?」
それは、20年前の型だった。鋼の刻印には、見慣れた名前が――
S.SERIZAWA
「芹沢……あなた、こんなところまで……!」
だが、そのペアンの内側に、小さなUSB型デバイスが仕込まれていた。
防護手袋越しに抜き取った葵は、それを検査室へ走った。
◆
USBの中身は――
感染者の遺伝子情報と、変異型ウィルスの設計図。そして最後に記されたメッセージが、冷たく流れた。
> 『夢にしがみつく時代は終わり。進化するのは“恐怖”だけよ、橘葵』
「……戦いは始まったばかりね、小夜子」
その夜、葵はペアンを見つめながら、静かに言った。
「陽翔……守るよ。あなたの未来は、私が切り開く。たとえ、それが……人の悪意を断ち切る、最初の“手術”になるとしても」
そして――
戦いの第二幕が、ICUの片隅で、音もなく幕を上げた。
◆
初夏の山道に、まだ朝霧が残っていた。
武蔵は深く息を吸い込んだ。湿った土と若葉の匂いが胸を満たす。背には粗末な荷。腰には木刀。懐には、父が残した巻物。
その筆跡は厳格で、どこか悲しげだった。
《剣とは、我を知り、敵を知ることなり》
父の教えは、かつて重く、苦しく、時に疎ましくさえ思えた。だが今は違う。
己の中に根を張るように、その言葉が残っていた。
「父上……あなたの“道”を継ぐとは言わない。だが、俺なりの剣を見つけてみせる」
武蔵は静かにそう呟いた。
◆
最初に向かったのは、美作国の小さな宿場町――勝間。
そこでは諸国を渡り歩く浪人者たちが、金のために技を競っていた。
「おい、若造。木刀か? 笑わせるなよ。抜けぬ刀で戦になるか」
片目の浪人がせせら笑うように言い捨てたが、武蔵は一言も返さなかった。
その瞬間――
木刀が風を裂いた。浪人の頬をかすめ、帯が空を舞った。
鞘の中の刀が、地面に落ちてから数拍遅れて、浪人の身体が崩れた。
「抜かずとも、斬れる」
誰かがつぶやいた。
武蔵はただ、巻物をなぞるように呼吸を整え、また歩き出した。
◆
その夜、川辺でひとり焚き火をしていた。
巻物の次の行を、声に出して読む。
《二の太刀を必要とせぬ剣こそ、真の剣なり》
しかしその境地は、あまりに遠い。
今日の一撃も、あくまで“偶然”にすぎなかった。
だが、武蔵の目は迷いを知らなかった。
「強くなりたい。誰よりも。だがそれだけじゃない……この剣で、何かを守れるようになりたいんだ」
焚き火の炎が、彼の影を二重に揺らしていた。
やがて、その“ふたつの影”が――
「剣を極める我」と「我を極める剣」
の分岐点となり、後に「二天一流」としてひとつに昇華されていく。
◆
武蔵はまだ何も知らなかった。
この先、命を賭けるような真剣勝負が幾度も待ち受けていることを。
そして、その道の果てに、己を斬る覚悟が求められることを。
だが今はただ、山道を歩く足音だけが、静かに未来を刻んでいた。
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