銀の細君は漆黒の夫に寵愛される

理音

2ヶ月後の2人(ミュリエル視点)

「こっちだよ、僕の奥さん」


赤い目をした騎士の手を取ろうとしていた右手を止め、振り返る。

道の脇で頭を下げるレネ。長い一本道の廊下には銀糸で刺繍されたクラバットを整えて、佇むアル様がいた。漆黒の髪には乱れもなく、まるで手品みたいにずっとそこにいたかのような余裕の微笑み。

でも、どうしてここに? 私を温室で待っていてくれるのではなかったのでしょうか?


「アル様・・・?」

「活発で、僕のために行動してくれる君も大好きだけど。今日は」


お仕置きかな。

私が瞬きをするほんのわずかな時間で、濃紺のシャツに黒いジャケットを纏った旦那様は吐息のかかる距離にいた。たくましい腕の中にすっぽりと抱きしめられる。

笑みを浮かべたまま端正な顔立ちが近づいて耳元で囁かれた言葉は冷たく優しく、私の意識をゆっくりと刈り取った。



△▼△



私が、アル様の妻になって早2ヶ月。この国の文字にも慣れ始めた頃。

今日も今日とて日のあたるのんびりとした空気の流れる居間で、レネの淹れてくれた紅茶と共に過ごす。本当に穏やかで、幸せすぎて私には身に余るくらいだけれど、他の誰でもないアル様がそう過ごすといいと勧めてくれるから甘えてしまっている。


―最初は、ここが魔の国であることと、私の旦那様が魔王様であることに驚いたけれど。驚いただけで、それ以上の感情は湧き出てこなかった。

それは気づけば、生まれてから奴隷商に引き渡されるまで生家を一度も出たことがなく、対人関係がない訳ではないにしても少なかったためかもしれない。また、宣言後に挨拶をしてくれた皆さんが、力を失ったとはいえ私に向けた視線が想像以上に優しく、穏やかなものだったからかもしれない。


ーこの先もずっと、この国で、貴方の隣で過ごしたいです。

宣言の数日後に誕生日を迎えた私のお祝いにと、アプフェルシュトゥルーデルを食べさせてくれていた彼に胸の内を告げる。私にとっては一世一代のことだった。でも、告げた瞬間アル様はいとも簡単に私を抱き上げて、そのままくるくると回った。深い黒の瞳を輝かせ、至極幸せそうな微笑みを浮かべながら。

このときから私は、自分の意思で故郷である王国を、ずっと住んでいた領地に別れを告げた。しかし、罪悪感はない。自分でも薄情だと思うけれど、今は王国と魔の国も戦争はしていないし、夜会にも出たことのない私1人いなくなったくらいで悲しむものはいない。気づく者も、ごくわずかでしょう。

・・・唯一の心残りであったのは、お母様の墓参り。しかし、屋敷にいたときですら一度も行けていない上に、ボルマン家を奴隷落ちして抜けたため、自分の胸にそっとしまっておく。今まで通り命日にひっそりと悼むことに決めました。


手にしていた刺繍針を針山に戻して、少し息をついた。意識をハンカチへと戻す。集中して取り組んだおかげで、進みも順調でいい出来になりそうだ。刺繍枠で止められた真っ白なシルクの生地に、青い糸で描く図案は彼が纏うバラをイメージしたもので、再開してすぐの頃よりはだいぶ複雑になっている。

久しぶりに取り組んだ刺繍は、私の唯一誇れること。カンを取り戻す意味もあってイニシャルから始めたけれど、その作品というか完成品は手元に残ることなく、どんなに小さな布切れに練習した拙いものでも全て旦那様に回収されている。曰く、長く私の手に触れたそれが他の誰かに渡ることを想像することすら涙が出そうになるそうで。

でも、この城に来てからずっとお世話になっているレネやクリスにはハンカチくらい、それぞれの瞳の色でイニシャル入りのものを渡したいと思う。いつか、落ち着いて話ができるときにお願いしてみようかしら。


「ふう・・・」


季節はとおに冬支度を済ませている。窓の外は木々が葉を落とし切って、雪はないものの色が寂しい。心配性の旦那様が下さった膝掛けは毛足が長くて、ふわふわとした感触が心地よかった。それだけでなく、暖炉に設置された魔石のおかげで部屋の中は暖かく快適に過ごせている。ううん、と少し伸びをした私に、レネは気遣うような視線をくれた。


「ミュリエル様、少し休憩なされてはいかがですか?」

「ええ、レネ。ちょうど今しようと思っていたの。ありがとう」

「紅茶を淹れ直させていただきますね」


部屋にはいい香りが残っていたけれど、カップは冷え切ってしまっていたようだ。申し訳なく思いながら新しいカップにサーブされた紅茶を受け取った。ミルクを少し加えて飲むと、ホッと一息つく。


「美味しいわ」

「光栄の極みでございます」


レネとのマナー講座もだいぶ身についてきたから、今度は紅茶の淹れ方でも教えてもらおうかしら。

その洗練された技術に見惚れて、それを披露したい相手を思い浮かべて私は恥ずかしくなった。

日なが1日、私の思考は旦那様がほとんどを占めている。艶のある黒髪はすっきりと短く切りそろえられ、その美貌をさらに整ったものにしていた。肌は隣に並ぶのが恥ずかしくなってしまうくらいきめ細やかな白で、服の下に隠された厚みのある胸板は男性的な魅力に溢れている。彼は服のセンスもよく、いつも身の丈にぴったりと合ったものを着ていた。チョーカーの宝石よりも深く、濃い瞳に柔和な色を浮かべながら私を見つめて、大切にしてくださるアル様。

どうしたら、彼に応えられるのか、そればかり考えてしまう。

それだけ、私にもわかるように愛情を込めて接してくださるから。執務の忙しい中でも朝食と夕食を欠かさず、給仕のためだけに現れることもあるくらいに。

・・・それに、2人きりで過ごす夜の時間も。

思い至って、頬が熱くなる。私はもう一口紅茶を飲んだ。

彼に初めて愛された日から営みが途切れることはなく、求められるがままに毎日毎晩寝落ちしてしまうのを繰り返していた。しかも、夜は普段の触れ合い以上に受け身になってしまうため、彼の手管に溺れるだけで何も返せていない。

だから、一緒にいられる時間が少なくても。アル様の気持ちを疑うことはない。むしろ公務を手伝うこともなく、こんなに不甲斐ない妻で本当に満足してもらえているのか疑問に思う。この国の慣習はわからないけれど、王ともあれば妻を複数娶ることも珍しくはない。そうなったら私は彼のために、何ができるでしょうか。

今度、誰かにそれとなく夫婦のあり方や営みについて、聞けるといいのですが・・・

そんな悶々とした、気恥ずかしい思いを抱える私を首を傾げて見つめるレネに、曖昧に微笑み返して一口大に小さく焼かれたプレッツェルに手を伸ばした。



△▼△



ある日、図書室からレネと一緒に戻る途中。十数歩先を歩いていた侍女服の女性が、ふらふらと覚束なく歩いた後に倒れた。借りてきてばかりの、手の中にある図鑑を取り落としそうになる。少し距離はあったけれど身が硬くなる。

・・・一瞬だけ、ほんの一瞬だけだけれど。彼女の姿が昔の自分と重なったから。


「あっ」

「奥様、お下がりください」


何ができるわけでもないけれど、思わず駆け寄ろうとしていた私をレネが制する。彼女の腕の隙間から見る侍女は顔が真っ青で、意識を取り戻す気配もない。見知らぬ侍女ではあるけれど、心配になってしまう。

助けを求めようと周りを見回す。けれど、私とレネの2人だけしかいない。このまま彼女を放っておくことなどできないし、どうしたらいいのかしら。

困惑した表情を浮かべている私に、レネは理知的な瞳をまっすぐと向けて、手を取って落ち着かせるように話してくれた。


「お心遣いには感謝いたしますが、もしかしたら呪いや感染する類のものかもしれません。ですから近づけるわけには参りません」

「そうね、ごめんなさいレネ。では、誰か呼んできてはどうかしら・・・?」

「いえ、こういったときのために水晶に触れると、騎士がすぐ来ますので」


私の手を取ったまま、レネが廊下に設置してあった照明に触れる。すると程なくして、3人の騎士が駆けつけた。

私はほっとする。そのうち1人は薄緑の魔道士のローブを着ていたから、きっと治癒専門の方なのだろう。


「御身に被害は」


背の高い、赤い瞳の青年が心配げに私を見て尋ねる。アル様が宣言のときに着ていたものとよく似たデザインの軍服で、私の過ごす居間にもしばしば滞在している護衛騎士のツヴァイと同じものだ。この城の守りは堅牢で、階段を行き来するときにもその前にいる騎士たちにレネが見せるカードのようなものが必要だし、不定期に巡回もしてくれている。

そういえば、今日は図書室を行き来するのにあまり従者にも騎士にも出会っていないような気がする。皆さんお忙しいのかしら?


「ありません。奥様、念のためこの廊下は通らず別のルートで部屋まで戻りましょう」


答えようとした私を制して、レネが答える。まだ慣れないけれど、貴族の妻となった女性が質問に対して応えることはほとんどなく、彼も私を見ているけれど返答はその従者がするのが普通なのだそうだ。

レネに奥様、と呼ばれてこそばゆい感じがする。2人きりの時は以前と変わらず名前で呼んでくれるけれど、体裁を整えることは必要なのでしょう。


「わかりました、レネ、案内をお願いします」

「でしたら、お#言伝__ことづけ__#がありますのでこのまま温室に案内させていただきます」


その言葉に一瞬だけ、レネが動きを止めたように見えた。騎士を仰ぎ見て眉一つ動かさず、問う。


「誰からの言伝でしょう」

「もちろん、魔王様からです」

「アル様、から?」


こんな昼間に彼からのお誘いだなんて初めてかもしれない。

朝食後なかなか私の側から離れないアル様を、クリスがなんとか執務室へと導くそのやりとりは、もはや日常と言っても差し支えないほどなのに。


「はい、執務に余裕が出来たそうなのでティータイムを共にされることを御所望です」

「一介の、騎士に言伝ですか」


含みを持たせたような、レネの声。私も胸の動悸が収まらなかった。アル様に会いたい気持ちと、レネの表情とを見比べて口を閉ざす。

待つことが、嫌なわけではない。彼のことを考えて、1人でニコニコしているのをレネに微笑ましく見られるのも日常だ。ただ、その時間は圧倒的に私の方が多いので、アル様が私を待っていてくれるのならとても嬉しく感じてしまう。


「はい、本当に急のことでしたので。ツヴァイ様より命を受けました」

「・・・奥様、どうされますか?」


レネの目が意図することを分かってはいたけれど、万が一にも本当のことだったら。それに彼はツヴァイの名前も知っているようですし。

いろいろな理由をつけたけれど、結局のところ会いたい気持ちを抑えられなかった私は本当に欲深くて、わがままな人になったわ。


「レネ、行ってみましょう。アル様とお茶をご一緒できるのなら、嬉しいわ」

「かしこまりました」


私の言葉にレネの瞳は一瞬だけ陰ったが、すぐに普段の落ち着いた表情に戻る。こちらです、と案内する騎士に従って続く私の後ろへと控えてくれた。




ーーーーーーーーーー

※この話はアルファポリスでも公開中です。宣言前のエピソードは完結済。先の展開も気になる方はこちらへどうぞ。

→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/764804081/928399132

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