この音を聞け
空峯千代
上
「正しい呼吸できていますか?」
チラシに書いてあったキャッチコピーが目に飛び込んできて、不意にドキリとする。でも、その次の「正しい呼吸法で日々を健康に過ごしましょう」で肩の力が抜けた。なんだ、ワークショップのチラシじゃん。
郵便受けに溜まっていた大量の封筒。
白、茶色、黄色、ピンク、赤。そして、水道局や近所の保育園なんかのチラシ。
それらを抱えて、アパートの階段を上がる。
明日は雨になるらしいから、洗濯物は部屋干しにしないと。
郵便物を抱えきれずに、ひとつふたつ封筒が落ちた。拾おうとしてかがむと、今度はチラシが落ちる。
チラシを拾おうとして触れると、うまく拾えずにすべってしまった。またあのキャッチコピーと目が合う。
正しい呼吸できてますか。
「まふゆ、聞いて」
あゆみちゃんは、たぶん聞くより話す方が好き。誰かの話を聞くときは、おしとやかな美人さん。でも、話しているときは花が咲いたみたいに笑うし、眩しいくらいに楽しそうだから。
教室の窓際、お昼休みになると机を合わせて二人でごはんを食べる。
あゆみちゃんは決まってお母さんのお弁当。今日は白米の上にオレンジ色の焼鮭が乗っていた。副菜のきんぴらやポテトサラダもきっと手づくり。
「ヴァイオリンのコンテスト、予選の結果出たの!」
「ええ! どうだった?」
「まだ見れてない。 自信あるけど、こわいよ~」
まだ小学生だった頃と同じような、あどけない顔であゆみちゃんは言った。
あの頃からヴァイオリンを習っていた彼女が落ちるわけないのに。
少なくとも。私を救ってくれた音が認められないなんてありえない。
「あゆみちゃんでも怖いんだ。 意外」
「予選落ちしてたら恥ずかしいもん」
そうは言いつつ、お弁当はしっかり食べてるんだよね。あゆみちゃんのお弁当箱は、卵焼きひと切れと数口分の白米だけしか残っていない。
「まふゆはお腹空かないの? 夏バテするよ」
「なんで? 足りてるよ」
「コンビニのパンとかおにぎりばっかだと瘦せるよ」
「瘦せたいもん」
じゅうぶん瘦せてるじゃん。そう言いながら、あゆみちゃんは私の顔をじっと見てくる。観念して口を開けると、卵焼きが押し込まれた。あゆみちゃんのおうちの味がする。お砂糖とたまごの、幸せそうな味。
「やばい! もう予鈴鳴る!」
あゆみちゃんは残りの白米を口に入れる。そしてお弁当箱をしまう代わりに、机から音楽の教科書とリコーダーを取り出した。
3限目、私は美術、あゆみちゃんは音楽。学校の音楽室は5階だから、教室からは地味に遠い。
「じゃあ、またあとで! 話聞いてくれてありがと」
あゆみちゃんは手を振りながら、小走りで音楽室へ向かった。つやつやの長い髪とセーラー服のスカートを揺らしながら、机と机の間を通り過ぎていく。路地裏を走っている猫みたいなうごき。
さっきまで彼女を照らしていた、窓から差し込む陽の光。その一筋が机の上に丸く落ちている。ぼんやりと光の丸を眺めていたら、予鈴が鳴った。
今日の音楽は何をするんだろう。私は意識を音楽室に向けたまま、先生からプリントを受け取った。
高校の図書室、すごく好き。
クーラーの風の音、外から聞こえてくる部活の声。たまにしか人が来ないから、読まれずに棚で待っている本。ここは静かで、守られてる。
窓際に一番近い本棚からてきとうに本を取り出して、そのまま床へ座る。
ひんやりした床が気持ちいい。誰もいないから見てる人もいないし。
さらに体勢をくずして、床にねっころがったままで本をひらいた。
タイトルは『毒を持つひとたち』。ページをペラペラめくりながら、活字を上から下に、また上から下に目で追う。
視線を走らせながら、頭の中ではヴァイオリンが情熱的に音色を奏でている。曲はベートーヴェン。交響曲第九番。
歌うように空気を震わせるヴァイオリン、この音は絶対にあゆみちゃんだ。
私はこの音色に何度も恋をしているから。今更間違えるはずがない。
ステージライトの光を浴びながら、しなやかな動きでヴァイオリンを弾くあゆみちゃん。ドレスはとびきり目を引く赤で、ラメがきらきら輝いている。そして、その隣でピアノを弾いているのは……。指先は見えるのに、奏者の顔が見えない。
いつの間にか旋律が止んでいる。ここはステージじゃない。背中にひんやりとした硬い床と、お腹にぬめぬめとした、何かが這っている感触。
……蛇だ。生温かい黒い蛇が、私の腹を這っている。ねばついた液体を体にまとって、腹から膨らみのあいだへ、あいだから唇へと寄ってきた。身体が強張って、息がうまくできなくなる。
いつも夜になると見ている夢が、夕方にも出てきちゃったんだ。こうなると、私は蛇がいなくなるまで好きなものを数える。
本の手触り。今朝学校までの道で見つけた季節外れのタンポポ。お昼にもらったお砂糖の卵焼き。ベートーヴェンの第九。……あゆみちゃん。
もう第九は鳴っていないけれど、蛇もどこかへ消えている。起き上がると、スマホに通知が入っていた。全部あゆみちゃんからだ。名前が見えるだけでも嬉しい。
床に落としたままの本を棚に戻して、あゆみちゃんに「おめでとう」のメッセージを送った。今頃、おうちで褒められてるだろうな。
そろそろ帰ろうとしたところで、奥の部屋から司書の森さんが出てくる。森さんは前髪が長く、限りなく無表情だから何を考えているのかわからない。
「あの、スカート」
「……私、スカート折って履いてないです」
制服を着崩すなって注意か。森さん、スカートの丈とか細かく見る人なんだ。
カウンター越しに立っている知った顔の人が、一人の男の人に思えた。瞬間、蛇が太ももや膝に巻き付くような感覚が走る。この部屋、寒い。
「私、折ってないんで」
言い捨てるみたいにして図書室を出た。校舎の外からは、吹奏楽部の練習する音が聞こえる。曲は『宝島』。ヴァイオリンはいなかった。
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