第3話 大鎌の少女、アルテナ①

 マーガレットは死物狂いで走り続けた。

 後ろからは、下卑た男の笑い声とコンクリートタイルを強く踏みつける音が同時に追ってくる。


「ちゃんと逃げろよ! 捕まって組み敷かれたくなけりゃあな!」


 女の身体という意味でしかマーガレットを見ていないケダモノの、嘲笑と欲望がない交ぜになったセリフを必死に首を振って振り払う。

 赤黒い空が覆った見知らぬ不気味な街並みを、右も左も分からない中で懸命に逃げ続ける。

 途中ですれ違う人は誰も居ない。左右に立ち並ぶ建物群はいずれも立派な造りだが、裏返していえばひたすら無機質で人の気配も温かみも無い。

 この不気味な街に、まるで自分とあの男しか居ないみたいではないか。


「ハァ、ハァ……! どうにか、あいつを撒かないと……!」


 こういう時、普通なら辺り構わず大声で助けを求めるものだろう。しかしマーガレットはそうしなかった。この街のヤバさは、既に充分肌で感じている。誰彼構わず助けを求めるのは愚の骨頂でしかないし、そもそも声が届く範囲に人が居るかも分からない。

 

 自分の脚だけが頼りだ。何としてもこの危機を乗り切る。あんな男に蹂躙されてたまるものか。

 マーガレットは強く自分の意志を保ち、ひたすら距離を稼ごうと努めた。スカートの裾を持ち上げ、コンクリート地面の隙間に踵や爪先を取られないよう願いながら必死で足を前に出す。

 やがて居並ぶ建物が途切れ、交差点らしき開けた場所に出る。マーガレットが走ってきた道を含め、三本に枝分かれしている三叉路だ。

 マーガレットはほとんど迷うことなく右側の道へ身を投じた。これで男の視界から一時外れた。僅かとはいえ、時間の猶予が生まれたのだ。あとは再び男の視界に入る前に何処かの建物に身を投じる。うまくすれば、それで男を撒ける筈だ。


「分かれ道で見失わせて、その間に適当な建物に隠れようってか!? たいした浅知恵だな!」


 こちらを煽る声が予想よりもずっと近い位置から聞こえたので、ぎょっとして思わず背後を振り返る。

 汚れたフロックコートとカンカン帽の男は、マーガレットのすぐ後まで迫っていた。彼我の距離が近すぎて、相手の視野から逃れることができない。


「男の体力に勝てるもんかよ! しかも、そんなお上品なドレスでよぉ! 随分と走りにくそうじゃねぇか!」


 マーガレットは歯ぎしりした。男の言う通り、この恰好は随分と動きを制限される。胴を締め付けるコルセットが下着の上から肌に食い込んで痛いし、スカートもクリノリンこそ入れていないものの(執事やメイドはいつも着けるようくどくどと言ってくるが、強く拒絶した)、くるぶしまで覆うほどの長い丈が脚にまとわりついて邪魔だ。

 これでは思うように身体が動いてくれない。相手はひどく薄汚れて貧相な見た目をしているとはいえ、男だ。服装のハンデを加味しても尚、運動能力に埋められない差があるのだろう。


「きゃっ!?」


 男の言葉に気を取られたのが災いしたのか、マーガレットはとうとうコンクリート地面の窪みに足を取られてしまう。走っていた勢いを殺せず盛大に前にすっ転ぶ貴族令嬢の背中に、男の下卑た嘲笑が降り注ぐ。


「ここまでだな、お嬢ちゃん。さあ、こっちに身体を向けて大人しくしてなぁ。無駄な抵抗はやめとけよ」


「や、やめて……! 来ないでっ!」


「おうおう、お決まりのセリフだなぁ。まぁ、そうやって嫌がられた方がかえって燃え上がるってもんよ」


 尻を後退りさせながら必死に逃れようとするマーガレットの切羽詰まった様相に、男が舌なめずりする。薄汚れた欲望の炎をその目に滾らせながら、獲物を追い詰めた余裕からか焦らすように緩慢な歩みでマーガレットににじり寄っていく。


「……っ!」


 マーガレットは手探りで何か武器になるものが落ちてないかと辺りを探したが、綺麗に整えられた道路には手頃な石ころひとつ見当たらない。

 こうなったら、とマーガレットは破れかぶれに決断した。爪で引っ掻いてでも歯で噛み付いてでも抵抗してやる。女の力じゃ男に敵わないなんて百も承知だ。それでも、やれるだけやってやる!


「……良い目だな、お嬢ちゃん。強い意志を持った目だ。俺も最初はそうだった」


 男の眼差しに、欲望とは違う淋しさのような感情が一瞬だけよぎったように見えた。だが、それは本当に一瞬だけだ。


「だがもう意地を張らなくて良いぜ。これであんたもきっと、楽になれる。自分の欲望に、正直に身を任せちまった方がな!」


 男の手が動く。身体全体が前かがみになり、道路に尻もちをつくマーガレット目掛けて覆い被さろうとしている。

 マーガレットは強く歯を食いしばり、体勢を支える両手を前に突き出そうと身構えた。


 その時だ。一陣の風が両者の間を横切り、閃光がマーガレットの網膜を掠める。


「うおっ!?」


 今にもマーガレットと接触しようとしていた男の身体が急速に離れ、代わりに焦った声が飛んでくる。

 男は二、三度たたらを踏み、その場から数歩下がる。


「テメェ……! 良いところで邪魔しやがって!」


 忌々しげに吐き捨てるその言葉は、マーガレットに向けたものではない。

 マーガレットもまた、驚きに包まれていた。


 いつの間にか、自分の前にひとりの少女が立っていたのだから。


 ピッタリと体格にフィットした紺色のブレザーと淡緑のシフォンスカート。そして頭部を飾る薄紫色のセミロングヘアー。それだけを見れば、どこぞの中流階級の娘かと思っただろう。

 だが少女の両手には分厚い革のグローブが嵌められ、剥き出しになった両脚にも鉄製のプロテクターが装着されている。

 極めつけは、両手に構える大きな鎌の存在だ。

 ともすれば由緒ある国立学校に通う女学生ともとれる少女だったが、一見してそれと分かる戦具のせいで異様な出で立ちとなっている。それが今、マーガレットと男を隔てるように両者の間に立っているのだ。


「あ、あの、あなたは……?」


 背後から尋ねるマーガレットの声に、少女はちらりと顔だけで振り向く。その横顔は思わず見とれてしまうほどに整っていた。少女の大きな目が、マーガレットを無感情に見つめている。


「そこから動かないで。すぐに片付けるから」


 そう言った少女の声は鈴の音のように玲瓏としていて、容貌と良く合っていた。


「へへっ、良くみりゃテメェも良い女じゃねぇか。こりゃツイてるぜ」


 突然の闖入者に気分を害していた男だが、新たに現れた少女の容姿を見てすぐにいやらしい目付きに戻る。だが流石に少女の装いに警戒心を掻き立てられるのか、無造作に近寄って来たりはせず間合いを取って様子を伺っていた。


「そんな馬鹿デケェ鎌なんて持ってるところは気に入らねえがな。まさかと思うが、それで俺と戦うつもりか?」


「分かっているなら話が早いわ。このまま引き下がるなら、わたしも追わない。あなたみたいな小物を狩っても意味が無いもの。怪我する前に消えなさい」


 色情魔を前にしても一切臆することなく、凛然と啖呵を切る大鎌の少女。そんな態度が面白くないのだろう、男は顔をしかめて荒い息を吐いた。


「何様のつもりか知らねえが、あまり俺を舐めるなよ。こちとらこの街で三年は過ごしてんだ、それなりに身体は“対応”してんだぜ」


「どれだけ時間を掛けようと、所詮は街に取り込まれた愚かな落伍者よ。笑わせないで」


 フン、と大鎌の少女は男の言葉を意に介さず鼻で笑う。

 男の顔付きが、はっきりと変わった。


「言ったなこのアマ! 後悔すんじゃねぇぞ!」


 怒号と共に男の周囲の空気が歪み、そしてその変化が訪れた。


「ええっ!?」


 マーガレットは自分の目にしているものが信じられなかった。


 男の体格がみるみる変わってゆく。全身の筋肉が膨れ上がり、着ていた衣服を引き裂いて露わになる。体色も人肌のそれからどす黒い禍々しい色へと染まり、それに伴いふさふさの体毛が新たに生えてきて、またたく間に全身を覆った。


「どうだ! これが俺の真の姿! へなちょこだった人間とは、もう違うぜ!」


 その声も、最早男のものではない。まるで地獄の中から響くような、聴いているだけで底冷えのする恐ろしい声だ。

 見ると男の顔も、既に人間から逸脱していた。目は白く濁りきって瞳も埋まり、口元から鋭く伸びる二本の牙を生やし、額からは天を衝くような一本の角が突き出ている。巨大化した体格といい、男の面影らしきものはもうどこにも無かった。


「はっ、はっ……! ば、化け物……っ!?」


 マーガレットは息苦しさを覚えている。さっきから上手く呼吸ができず、息を吸うばかりで吐き出すことができていない。胸が痛く、グワングワンと頭が揺れて思考が定まらないのに、目だけは射竦められたように男だったモノへ釘付けになっている。


「そう、あれは化け物よ。この街に魂まで浸かって、最終的に人の皮を捨て去った哀れな落伍者。今となってはもう、欲望の権化でしかないわ」


 驚いたことに、異形へと変身した男を見てもなお大鎌の少女は落ち着き払ったままだった。静かに腰を落とし、両手で大鎌を振りかぶるように構える。

 その有り様は、まさに歴戦の戦士といった具合だった。


「こうなったら仕方無いわね。気乗りはしないけど、ここで狩らせてもらうわよ」


「ガキが、いきがるんじゃねえ!」


 人間ではない声でがなりたて、化け物が地を蹴って一気に少女へと肉薄する。その瞬間、奴が立っていたコンクリート地面が割れ砕けるのが見えた。それだけでも、あの怪物のパワーがどれだけ凄まじいか一目瞭然だ。


「に、逃げてっ……!」


 マーガレットは声を震わせながらも、反射的にそう叫んだ。

 あんな化け物に敵うわけがない。まともにぶつかれば、この目の前の少女は為すすべなく殺されてしまう。それは、ダメだ。

 だが薄紫の髪をたなびかせた少女は、そんなマーガレットの想いとは裏腹に――


「はあっ!」


 逃げるどころか、化け物に向かって大きく踏み出したのだった。

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