イービル・イレイス ―欲望の虚都にて少女達は出逢う―

ムルコラカ

第1話 貴族令嬢、マーガレット・ウォレス

 ガタン、と一際大きな振動に身体を揺さぶられ、マーガレットは目蓋を見開いた。

 ぼんやりと周囲を見回してみる。全体を黒と深緑の色合いに分けた、小綺麗な個室。両側にふかふかのソファーが設えられ、その一方に自分が座っている。右手側には、自分の持ち物が入っている上質な革のカバン。その先にあるのは、出入り口と思しい木製のドア。左手側には大きな四角い窓が嵌め込まれ、そこからは朱色に染まった外の景色が目まぐるしく移り変わり、横へ横へと流れていく。

 ポーッ、という甲高い汽笛が風に乗って窓の外から運ばれてきた。そこでようやく、マーガレットの心は現実に帰ってくる。


「汽車……。私、汽車に乗ってるのね」


 もう一度辺りを見渡し、現状を声に出してみる。間違いない。自分が今居るのは汽車の個室、一番値が張る一等客車だ。


「でも、どうして? 私、いつの間に汽車に乗ったのかしら?」


 太ももに肘をつき、手の平に顎を乗せてマーガレットは考え込む。サラサラのブロンドヘアが指に垂れてきたが、気にすることなく思考を続ける。

 いつの間にか眠ってしまったらしい、そこまでは分かる。だが、いくら眠る前のことを思い出そうとしても、頭の中は靄がかかったように不明瞭になっていて、何ひとつそこから浮かび上がってくるものは無かった。


「うそ、でしょ……? 記憶が、私の記憶が……!?」


 落ち着け、とマーガレットは自分に言い聞かせた。そう、マーガレット。掛け替えのない、自分の名前だ。歳は十七、性別は女。可愛らしい顔立ちと、金糸のような髪が自慢のおませさん。親しい人には、『メグ』という愛称で呼ばれる。住所は王都の高級住宅街。爵位を継承する富裕層の生まれで、家族は父と母。つまりは、金持ちの家の子だ。今着ているこの薄紅のドレスも、ひと目見ただけで上質なオーダーメイド品と分かるし、コルセットを締めている間隔が腰と腹にある。


 うん、自分の名前や身分や家族構成や生活環境なんかの基本的なことは覚えている。では、今日は何月の何日で、なぜ自分はこの汽車に乗っている? 此処で眠りこけていたまでの経緯はどんなだった?


「……ダメ、思い出せない」


 やはり、記憶には大きな空白がある。最後の記憶は、自分の家に居るところだった。なにやらロウソクを片手に、地下室へ向かっていたという覚えはあるが、それだけだった。どんな目的で地下なんかに行こうとしていたのか、それからどうしていきなり汽車で寝ていたのか、まるで繋がらない。

 とりあえず、窓の外に広がる朱色の空模様から、今がもう夕方に差し掛かった時刻だろうとは推定できるが……。


「無理に思い出す必要はないよ」


 突然、自分以外の声がした。マーガレットは心臓が止まるかというくらいに驚き、喉からしゃっくりみたいな変な声が漏れる。見開いた目を声のした方へ向けると、対面の座椅子に人の姿があった。さっきまで自分以外の誰もこの客室には居なかったのに。


「あ、あ、あなた、だれ……!?」


 恐怖と警戒を全面に押し出しながら、マーガレットはまじまじと相手を見る。

 端正な顔立ちをした青年だった。スラリとした長身を紺を基調としたスーツで包み、同色のトリルビーハットで頭を飾っている。つばの下から覗く目には、珍しい真紅の瞳が宿っている。青年は組んだ脚に両手を乗せて、微笑みを浮かべながらじっとマーガレットを見ていた。


「俺のことはどうでも良いんだ。大切なのは、これからの君さ」


「は……? 意味が、分からないんだけど……。急に現れて、何を言うのよ」


 得体のしれない青年を前に、マーガレットの警戒心は限界まで膨れ上がる。誰か、大声を上げれば助けに来てくれるだろうか?


「大声で助けを呼ぼうとしても無駄だよ。第一、俺は君に何もしない」


 マーガレットの心中を読んだみたいに、スーツの青年は余裕たっぷりに言った。


「俺が此処に来たのは、まあいわば最後の親切ってやつだ。この汽車が目的地に着いたら、あとは君が自力で頑張るしかないんだからな」


「あなた、私がどうして此処に居るのか、この汽車がどこに向かっているのか、全部知ってるの!?」


 まさかこの男が、自分をこの汽車に乗せたのか? マーガレットの中で、恐怖よりも怒りの感情が勝りつつある。


「知ってるのなら、全部話して頂戴! 事と次第によっては、誘拐と見なしますからね!」


「ははは、本当に気の強い女だな。まあ、跳ねっ返りでいた方がこの先やりやすいだろうしな」


 マーガレットの憤慨などまるで意に介さず、青年は声を上げて笑った。どことなく人を見下したような、悪意の込もった笑み。マーガレットは背筋に毛虫が這うような嫌悪感を覚えた。

 スーツの青年は笑いを収めると、組んでいた脚を下ろして上半身を前に傾ける。そして、真紅の瞳から光を消してマーガレットの顔をじっと見上げた。


「良いか、肝に銘じておけ。たとえ覚えていなくても関係ない。既に汽車は動き出し、目的地まで一直線だ。もう引き返すことも、途中で投げ出すこともできない。死んだとしても、すべて自己責任となる。これは、そういう契約だ」


「は!? な、何よそれ! 私、そんなの知らない! 一方的にわけの分からないことを言わないで! ちゃんと理解できることを話してよ!」


 詳細は不明ながら、物騒なことをのたまう青年にマーガレットの怒りのボルテージはついに最高潮を迎える。我を忘れ、感情に任せるまま青年に掴みかかろうと腰を浮かせたところに、彼が「待った」というように手の平を向けた。


「おっと、力に訴える前に窓の外を見てみな。君がこれから行く場所が丁度大写しになってるぜ」


「え?」


 マーガレットは思わず彼の言葉に釣られて視線を外へ向けた。


 大きな湖を挟んだ彼方に、赤煉瓦の豊かな街並みが見える。夕暮れ時の斜陽に照らされて、街全体が血のように赤く映えていた。


「栄耀栄華の街、リヴァーデン。彼処で、君の望みが叶うと良いな」


 再び耳に飛び込んできた青年の呟きでマーガレットは我に返り、視線を客室の中へ戻すが、その時にはもう対面のソファーの上に青年の姿は無かった。


「どこ行ったの……!?」


 慌てて部屋の中を見渡すが、どこにも居ない。客室のドアは閉まったままだ。開閉する音はしなかったし、青年の足音も聞いていない。それなのに、さっきまで確かに目の前に座っていた筈の青年が消えた。

 まるで煙のように、忽然と。最初から、この客室には自分しか居なかったかのように。


「そんな筈がないわ! きっと、ドアの後ろ辺りに……!」


 ぶり返してきた恐怖心を振り払おうと、マーガレットが客室の外へ探しに行こうとした時だ。


 ガタガタガタ――! と、一際大きな振動が客室全体を襲った。


「きゃっ!? 今度は何!?」


 マーガレットは反射的に背もたれの縁を掴んで体勢を支えた。しかし揺れは一向に収まらない。地震だろうか?


「ひぃっ!? だ、誰か……!」


 激しい揺れに晒されて、マーガレットの心が完全に恐怖で塗り潰される。汽車の車輪がレールを強くこする不協和音が客室にこだまし、否が応にも危機感を駆り立てる。このままいけば良くて脱線、最悪車輌そのものが転倒してしまうだろう。そうなれば、中に居るマーガレットも生命の保証は無い。


「や、やだ……! こんなところで、わけも分からないまま死んじゃうなんて……!」


 父様、母様、神様、天使様、いやこの際悪魔でも構わない、どうか自分を助けて――!

 死にたくない一心で、マーガレットは思いつく限りの相手にひたすら祈る。少しでも気を紛らわせようと、窓の外を見た。


「え――?」


 空の赤さが増している。夕焼けにしてはやけに鮮烈過ぎる、どぎつい真紅。それはまるで、あの青年に宿った瞳の色を思わせる。どこまでも赤く、しかし同時に禍々しい、血のような色合いに染まった世界。

 これは本当にこの世の光景なのだろうか? もしかして自分は、夢を見ているのではないのか?

 心の中で膨らむ疑問に呼応するかのように、空の真紅がますます強さを増した。窓から客室に侵入し、たちまち内部を赤の光で満たしてゆく。


 視界すべてが真紅に覆われたと同時に、マーガレットは意識を失った。

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