昔死にかけた話とか、エッセイについてとか
昔死にかけたことがあるんですよ。何回か。事故にあってとか、ちょっと自分で死んでみようかなとか。あるいははたまたいろんな理由でとか。何でとか、何があってとかはちょっと今は書けないかなって思うのですが。
こう、自分自身について書くのってすごく抵抗感ってありませんか。エッセイみたいなの書くのってすごく抵抗感じませんか。まあ、これはエッセイではないんですけど。とはいえあんまりエッセイに寄せたくないなと思いながら筆を執るこの頃です。
だって、エッセイって嘘がつけないじゃないですか。小説はここは書きたいからここを書くができると思っているんですけど、エッセイにはそれが許されない雰囲気があるというか。書くなら赤裸々じゃないと許されないというか。そんな雰囲気がある気がします。あと、エッセイというのは「私」の話のような気がするから苦手です。「私自身の」話というか。これは物語なんで、創作なんで、という言い逃れができないような気がしてちょっと苦手です。なんと言うか「私」自身の核心について触れざるを得ない雰囲気というのを、エッセイは持っているような気がします。
でも正直、自分の核心なんて好き好んで覗き込みたい人間なんていないと思うんですよね。私は、私がろくでもない人間であることを知っています。でも、どうろくでもないかなんてわざわざ言語化したくないじゃないですか。それに、「私」がどんな人生を歩んできたか、なんてわざわざ言語化したいかって言われると難しいところがあるんじゃないかって思います。例えばの話ですが、小説で私を出すことはあんまり気にしないと思います。だってそれは小説の中の私であって、「私」じゃないからです。生身の肉体を持った「私」じゃないというか。なのでそういう作品は全然書くことに抵抗はないだろうなと思います。でもエッセイは違うじゃないですか。生身の肉体を持ったこの「私」のお話。それをできる人というのはすごいなと思います。ちょっと私にはまだまだハードルが高いかな、なんて思います。
それはともかく、昔死にかけた話でした。あの死にかけてる時の感覚ってすごく独特だなって思います。あ、このままだと死ぬなって何となくわかるんです。このまま何もしないで、流されるままにしたら死ぬなというべきか。自分というのが消えるんだなというのを何となく察します。それも、私の場合はですけど、一息にぷつんと消えるんじゃなくて、やすり掛けされるみたいに、じわじわ自分というものがほどけて消えていく感覚。これ以上自分が消えたら自分じゃなくなるんだろうな、なんていうのが何となくわかります。私がそれがとても怖くって。自分のほどけてきていく感覚が。あ、まだ死にたくないなと思っていたら、何故かまだ生きていました。何で生きていたのかは正直よくわからないんですが。正直な感想を述べると、なんか生きてるって気分です。でももしあの時、まあいいかと諦めていて、流されるままに流されていたら、きっと死んでたんだろうなあと思います。そんな昔話を、ふと唐突にしたくなりました。
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