Dreamer(ドリーマー)――夢以上のもの

@ZM_16

第1章:偉大な夢想家 [全国大会クラス分け]

夢とは何だろう。


手を伸ばしても届かないもの?


それとも、心の奥に灯る小さな炎のことだろうか。




誰かに笑われ、


誰かに否定されても、


それでも諦められないものがある。




幼い頃、テレビの向こうに見た光景。


心を打つ歓声、画面に映るヒーローたち。


ただの遊びだと思っていたその世界が、


ある少年の運命を変えていく。




これは、夢を見ることしかできなかった少年が、


夢に立ち向かう覚悟を持つまでの物語。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


薄暗い部屋に、テレビの音が響いていた。




――マルコスがボールを受けた!――


実況の声が画面から勢いよく飛び出す。


――右サイドへ展開、ブラジルの名サイドバック、ロベルチーニョ!一対一!パスのフェイント…いや、違う!抜いた!股抜きだ!爆発的なスプリント!センタリングか…しない!鋭い切り返し!なんというプレーだ!体を整えて…シュート!




一瞬の静寂。




――ゴォォォォォルッ!!ロベルチーニョのスーパーゴール!完璧なシュートがゴール左上隅に突き刺さった!この男、なんという才能だ!




エミはテレビの前に正座し、まばたきもせず画面を見つめていた。目が輝き、その一瞬に心を奪われていた。




「すごい…」


小さくつぶやく。視線は一切逸らさない。




「エミ?」


廊下から父親ユウエイの声が聞こえた。


「まだ寝てないのか?」




エミはわずかに顔を向けた。




「パパ、来て…これ見て!」




ユウエイは興味深げに近づいてきた。Tシャツの袖をまくりながら。




「どうした?」




「サッカーって…こんなに面白いなんて思わなかった」


エミの目はまだ画面に釘付けだ。




「本当に好きなのか?好きな選手はいるのか?」




エミは答えず、ただ指を画面へ向けた。ちょうどそのとき、ロベルチーニョが仲間に抱きしめられながら笑顔でゴールを祝っていた。




「ロベルチーニョか?」


と父が尋ねる。




「すごい選手でしょ?」




ユウエイは黙って見つめた。


「ディフェンダーか…普通はフォワードに憧れる年頃だけどな…」




そう思ったその時、エミが父を見上げた。目に宿る決意が、言葉よりも強く伝わってくる。




「パパ…ぼく、サッカーをやりたい」




その一言に、ユウエイは息を呑んだ。




「エミ…わかってると思うけど、お金はかかるんだ。今の家計では…」




「お願い、パパ」


エミは感情を抑えながらも真剣な声で遮った。


「もう何もいらない。ただ…挑戦させて。やってみたいんだ」




沈黙が落ちる。ユウエイはしばらく息子を見つめた。まるで初めて見るかのように。


その目には、消えない光があった。




「わかった」


微笑みながら言った。


「明日、サッカーをしに行こう」




エミの顔が一瞬で輝いた。




「ありがとう、パパ!大好き!」




「私もだよ。さあ、もう寝なさい。明日に備えてね」




「うん!おやすみなさい!」




「おやすみ」




テレビの電源がカチリと切れ、部屋は再び静寂に包まれた。


外では街が眠っている。


だがその中で、一つの夢が、静かに目を覚まそうとしていた。




夜は一瞬で過ぎ去り、朝の陽光が窓から差し込む頃――


エミは勢いよく父の部屋へと飛び込んだ。




「パパ! パパ! もう遅いよ!」




ユウエイは目を見開き、まだかすれた声で応じた。




「何時だ?」




「午後の二時!」




「そんなに寝たのか…?」


顔をこすりながらつぶやいた。


「すまない、朝ごはんも作ってないし…学校にも連れて行けなかったな」




「大丈夫だよ」


エミは穏やかに笑った。


「友達が自分のごはんを少し分けてくれたから」




ユウエイは少し黙ってから、力強くうなずいた。




「数分くれ。準備してすぐに連れて行くよ。サッカーアカデミーに」




* * *




一時間後――




父と子は黒い鉄の門の前に立っていた。


その向こうには、手入れの行き届いた芝生のグラウンド、太陽に輝く観客席、そしてモダンな建物がそびえていた。




エミは口をぽかんと開けて眺めていた。




「すごい…」




「気に入ったか?」


ユウエイが微笑みながら訊いた。




「うん…とっても…」




「ここで待ってろ。オーナーと話してくる」




エミはうなずいたまま、その場を動けずにいた。


すべてがまるで夢のようで、目が離せなかった。




父が少し離れたそのとき、不意に耳を突くような声が割り込んだ。




「へえ、へえ…誰かと思えば」




エミが振り向くと、数メートル先にトレーニングウェアを着た少年が腕を組んで立っていた。


その顔には嘲るような笑みが浮かんでいる。




「貧乏人じゃねえか。迷子か? ここは“本物の男”のためのサッカーアカデミーだぜ」




「ぼくも男だよ」


エミは動じずに返す。




「違うな」


少年はにやりと笑いながら近づいた。


「おまえみたいな貧乏人は、女の子にしか見えねぇよ」




「うるさい! ぼくは男だ!」


エミは拳を握りしめて叫んだ。




少年はそのままエミのシャツの襟を掴み、軽く突き飛ばした。




「俺を嘘つきって言ってんのか?」




「放してよ!」




* * *




【シーン:アカデミー内のオフィス】




別棟にある広くて洗練されたオフィス。


大きな窓からはメインフィールドが一望できる。


ユウエイはその中で、濃い木製のデスクの前に立っていた。




「失礼します」




「どうぞ」


奥の席から、気品ある声が返ってきた。




その男はデスクから立ち上がり、手を差し出した。




「こんにちは、私は黒木レオ。渋谷フットボールアカデミーのオーナーです」




「初めまして、黒木さん。西村ユウエイと申します」


丁寧に一礼して手を握った。




「お聞きしました。ご本人のご希望で面会を、と」




「はい…」


ユウエイは一度視線を落としたあと、しっかりと目を上げて言った。


「お願いがありまして」




「お願い…ですか?」




「アカデミーの費用についてです」




レオは目を細めた。




「それがどうかされましたか?」




「今、私たちの家計はあまり余裕がありません。でも…息子はサッカーを心から夢見ています。年末までに入学費を払えるようにしたいと思っているのですが…何とか、彼にチャンスを与えていただけないでしょうか。私自身が持てなかった夢を、彼には持たせたいんです」




部屋に静けさが満ちる。


レオはしばらく沈黙のまま、ユウエイをじっと見つめた。




「西村さん…それは簡単なことではありません。この費用には選手たちの維持費も含まれていますから」




「承知しております」


ユウエイは真摯にうなずいた。


「それでも…心からお願いします。息子の笑顔が見たいだけなんです」




レオは小さく息をつき、顎に手をやった。


そして、ゆっくりとうなずいた。




「わかりました、西村さん。今回だけ、特別に認めましょう。父から、あなたのことをよく聞いていましたから」




ユウエイの目が輝いた。




「ありがとうございます、黒木さん。絶対に後悔はさせません」




叫び声は、最初は遠くの雑音のように聞こえた。


外から漏れ聞こえる、耳障りなざわめき――




レオは眉をひそめた。




「何の騒ぎだ…?」


立ち上がりながらつぶやく。




ユウエイもすぐに席を立ち、二人は急いで廊下を渡った。




ドアを開けて中庭へ出た瞬間、その喧騒は一気に爆音へと変わる。




「ケンカだ! ケンカだ!」


数人の少年たちがフェンスの横に輪を作り、興奮して叫んでいた。




その中心で、エミはさっきの少年と地面でもみ合っていた。


殴り合い、押し合い、土埃が舞い上がる。


荒い息遣いが、鋭い刃のように空気を切っていた。




「エミッ!」


ユウエイは少年たちをかき分けながら叫んだ。




彼とレオはすぐに介入し、二人の少年を引き離した。


ユウエイは息子の肩を押さえ、レオはもう一人の少年の腕を掴んだ。




「一体、何をやってるんだ!」


ユウエイの声には怒りがにじんでいた。




「彼が先に…」


エミは土まみれの頬と燃えるような目で言った。




レオは横に視線を移す。




「ソラ、本当なのか?」




少年は目を逸らした。




「嘘です。あいつがいきなり殴ってきたんだ」


冷たい声でそう答える。




レオは周囲の少年たちを見回した。




「誰か、見ていた者はいないか?」




場に沈黙が走る。


誰もレオの目を見ようとしなかった。




一瞬の間のあと、レオは冷ややかに背筋を伸ばした。




「申し訳ありません、西村さん。ですが、これで話はなしです。もし息子さんをここで訓練させたいのであれば、他の生徒と同じように費用をお支払いいただきます」




「パパ、信じて! 本当なんだ!」


エミが父の腕にすがりつく。




だがレオは彼を振り払い、無言で建物へ戻っていった。


空気は重く、息をするのも苦しいほどだった。




風が冷たく吹き抜ける中、父と子は無言のまま歩道を歩いていた。


エミは唇を噛みしめ、ユウエイはポケットに手を入れたまま、何も言わなかった。




そして突然、爆発するように声が上がった。




「何を考えていたんだ…? オーナーの息子とケンカなんて…」




「信じてよ、パパ! あいつが先にやったんだ。ぼくは何もしてない!」




ユウエイは足を止めて息子を見た。




「もう信じるのに疲れたよ、エミ。今回ばかりは…全部、台無しにしたんだ」




エミはうつむいたまま、何も言わなかった。


足元で小石が転がった。




「すみません…」


背後から、年の近い少年の声がした。




ユウエイは苛立った様子で振り返る。




「今はやめてくれ、坊や」




「その…息子さんの靴、アカデミーに置き忘れてました」




少年は泥だらけの靴を差し出した。


その顔には迷いと戸惑いがにじんでいた。




「それと…言いたいことがあって」


声を落としながら続けた。


「あなたの息子さんが正しかったんです。彼は、何もしていませんでした」




ユウエイは眉をひそめた。




「どういうことだ?」




「最初から見てました。先に手を出したのはソラ君です。でも…怖くて言えませんでした。黒木さんが父親なので…問題を起こしたくなくて…」




その瞬間、世界が静止したかのように感じられた。


ユウエイは靴を見下ろし、そして少年の顔を見た。




「ありがとう」


深いため息とともに、静かに言った。


「正直に話してくれて、ありがとう」




少年はうなずいて去っていった。




ユウエイは再び息子のほうを向く。


エミは黙ったままだ。




「すまなかった」


父は低く呟いた。


「俺も…うまくやれてないんだ、全部が」




エミは何も言わなかった。




* * *




夜が訪れ、二人は食卓を囲んでいた。


皿の音と、天井のファンの微かな風音だけが響いていた。




「なあ、エミ…」


ユウエイが沈黙を破った。


「今日の学校はどうだった?」




「普通…」


目を合わせずにエミは答える。




「まだ怒ってるのか、昨日のことで…?」




返事はない。


フォークが皿をこする音だけが響いた。




ユウエイはため息をつき、箸をそっと置いた。




「ごめんな、エミ。俺だって、簡単にできてるわけじゃないんだ。あの日から…」




「言わなくていいよ」


エミは淡々と口を挟んだ。


「これからは、ぼくが助ける。もう…パパの負担になりたくない」




「エミ、お前は負担なんかじゃ――」




だがエミはすでに席を立ち、後ろを振り返ることなく静かに歩き出した。




「エミ…」


ユウエイはその背中を見送った。




部屋には静寂が戻る。


暖かさがまだ残る皿の、微かな音だけが、食卓に残っていた。




四年という時が、まばたきの間に過ぎ去った。




春の空が屋根の上に広がり、校庭には桜が咲き誇る。


十六歳になったエミは、ポケットに手を突っ込みながら、どこか退屈そうな顔で階段を下りていく。




「ったく…またあの永遠みたいな授業の日かよ」


ぼそりとつぶやいた。




「いってらっしゃい、エミ」


キッチンからユウエイの声がした。


彼はシンクに向かいながら、振り返りもしなかった。




「ありがと、パパ」


エミも後ろを振り向かずに返した。




登校路には、いつものにぎやかさがあった。


談笑する生徒たち、自転車の音、目覚めたばかりのセミの鳴き声。


校門の前では、腕を組んで待つ少女が一人。




「やっと来たわね、エミ」


皮肉混じりの口調で言う。




「ウミか…こんな朝早くに会うとは思わなかったよ」




「昨日、ここで待ち合わせってメッセージ送ったじゃない」




「…あ、そうだったっけ。忘れてた」




ウミは大げさにため息をついた。




「ほんと、いつになったらそのうっかり治るの?」




「それが俺の魅力ってことで」


エミは半分笑いながら言った。




二人は並んで校舎へと歩き出す。何度も繰り返してきた日常のように。




「今年、どの部活に入るかもう決めた?」




「いや…たぶんどこにも入らないと思う」




「えぇ!? 本気? それって青春の無駄遣いじゃん!」




「なんか君、おばさんみたいなこと言ってない?」




「だって本当にそう思うんだもん! 中学の時もそうだったじゃない。部活なし、友達なし、行事も不参加」




「でもウミは友達だろ? 俺、別に部活なくても君と仲良くなれたし」




「バカ。私は隣に住んでただけでしょ? 学校で知り合ったわけじゃないよ」




「…言われてみれば、そうだな」


エミは肩をすくめる。




「でも本当に部活、入らないの?」




「うん」




「じゃあサッカー部は? テレビで試合やってる時、いつも画面に釘付けじゃん」




「ただの習慣だよ。興味なんてない」




「へぇ〜…」


ウミは明らかに信じていない顔で、眉を片方上げて返した。




校門をくぐった先は、まるでお祭りのような賑わいだった。


色とりどりのテント、チラシを配る生徒たち、勧誘の声と笑い声が飛び交っている。




「えっ、なにこれ?」


思わず足を止めるエミ。




「運命が部活に入れって言ってるんじゃない?」


ウミが楽しそうに答えた。




「ウミはどこに入るつもり?」




「たぶん…オーケストラ部かな」


彼女はチラシをぱらぱらとめくりながら言った。




「“たぶん”じゃなくて、絶対入った方がいいよ。楽器、めっちゃ上手だし」




ウミは片方の口角を上げて笑った。




「じゃあ…エミも何かに入るなら、私も入る」




「そういう駆け引きは効かないよ」




ちょうどその時、一人の少年が走ってきて足を滑らせ、エミの横腹にぶつかった。




「ご、ごめん!」


少年は慌てて立ち上がった。




「大丈夫」


エミは袖を払いながら返す。




少年はじっと彼の顔を見つめ…そして驚いた表情になった。




「…君って、あの時の!」




「え? 俺がどうしたって?」




「覚えてないの? 何年か前、サッカーアカデミーで会ったじゃん」




「ごめん、人違いじゃないかな」




少年は少し気まずそうに後ずさった。




「…そっか。ごめん。勘違いだったみたい」




そう言って、あっさりと立ち去った。


エミは無言のまま、再びウミと歩き始める。




「サッカーアカデミーって…?」


ウミが首をかしげた。


「サッカーなんてやったことないって言ってたじゃん」




「実際…やってないからね」


エミは歩みを止めずに言った。




「じゃあ、あの子のことは知ってるんだ」




エミはうなずいたが、しばらく何も言わなかった。


そして、ぽつりとつぶやく。




「うん。でも…思い出したくない記憶なんだ」




ウミは少し歩調を緩めて、彼の横顔をそっと覗き込んだ。




「いつでも話していいんだよ。私は、ちゃんと聞くから」




エミは一瞬だけ視線を向けて、静かに笑った。




「…覚えとく」




教室に入ったとき、まだ半分ほどしか席が埋まっていなかった。




「やっと静かになった…」


エミはため息をついた。


「玄関前の騒ぎ、さすがに疲れたよ」




「エミ、それが新学期だよ。普通は友達作るチャンスって思うんじゃないの?」




「その通りだと思う」


教室の奥から声がした。




二人は驚いて振り向く。


窓際の席に座っていたのは、黒髪で少し乱れた髪の少年。


黒いジャケットの胸には漢字の刺繍。


どこか飄々とした佇まいで、深く静かな目をしていた。




「いつからそこにいたの…?」


エミは素直に驚きを口にした。




「一番乗りだったよ」




なんで気づかなかったんだ…?


エミは思った。


まるで存在感を消していたかのように、自然にそこにいた。




「名前、教えてくれる?」


ウミが興味深そうに尋ねる。




「月島イェン」




「この人と友達になってくれない?」


ウミが冗談っぽくエミを指差して笑う。


「新しい人と話すの、苦手みたいだから」




「ちょっと、ウミ…!」


エミは少しムッとした表情で返す。




「いつまでも私に頼ってちゃダメでしょ? 少しは殻を破りなさい」




「はいはい…」




「じゃ、私はオーケストラ部の申し込みに行ってくるね。男子同士、仲良くやって」


ウミはひらひらと手を振って教室を出ていった。




しばらく沈黙が続いた。




「で、君は?」


エミが少し気まずそうに話しかける。


「部活、入るつもりあるの?」




「サッカー部」


イェンは迷いもなく答えた。




エミはその横顔をちらりと見た。


……本気かよ? あんな落ち着いた雰囲気のやつが?


周囲の目なんて気にしてなさそうなのに。




「マジで? 何のポジション?」




「センターフォワード」




フォワード…? あの細身の体で?


ピアニストにしか見えないんだけど…




そのとき、突然誰かに肩を抱き寄せられた。




「最高じゃん! ちょうどフォワードが必要だったんだ!」




……誰だよこいつ。




長身で、キラキラした笑顔と圧倒的な存在感を持つ少年が、まるで昔からの親友かのように二人に腕を回していた。




「いきなりごめん! 俺、五十嵐レオ。サッカー部のキャプテン!」




イェンは目を瞬かせた。




「キャプテン? ってことは三年生?」




「そーそー! こう見えてもね!」




「レオ!」


廊下から教師の声が飛ぶ。


「部活勧誘は終わったって言っただろ! 早く戻れ!」




「はーいはーい、先生〜。じゃ、またな!」


そう言って、彼は元気よく走り去っていった。




放課後のチャイムが鳴り、エミは鞄を手にしながらウミに声をかけた。




「何か食べに行かない?」




「ごめん、今日は無理。オーケストラ部、今日から活動始まるの」




「そっか」




「今度は絶対付き合うから」




「うん」




「ウミ! もう行くよー!」


廊下から別の声が飛ぶ。




「行く行く、ハルー! また明日ね、エミ!」




イェンが無言で近づいてくる。




「どうやら、暇になっちゃったな」




「……そうみたいだね」




「部活の体験、来てみる?」




「他にすることもないし」




* * *




【シーン:サッカーグラウンド】




フィールドには活気が満ちていた。


ボールが跳ね、声が飛び交い、太陽は傾き始めて空を琥珀色に染めていた。




レオが手を振った。




「来たなー!」




「そのつもりだったからね」


イェンが静かに返す。




すると、どこかで見た顔が現れた。




「やっぱり…君だったのか」


数日前、エミを間違えた少年だ。




エミは顔をしかめた。トラブルは避けたかった。




「ごめん。ただの付き添いだから。体験するつもりはないよ」




「そうか…残念だな」


レオはそれ以上何も言わなかった。




イェンは黙ってジャケットを脱ぎ、荷物を地面に置いてフィールドの中心へ向かっていった。


一方、エミはラインの外に立ったまま、じっとそれを見つめていた。




――もう二度と、サッカーはやらないって決めたんだ。


そう思いながら、心の奥に沈んでいた過去の影が、また浮かび上がってくるのを感じていた。




トラブルを起こすだけだった。


サッカーは、痛みと後悔しか残さなかった。


でも…もういい。


勉強して、働いて、父さんを支える。


借金も、重荷も…全部、終わらせる。


ただ、静かに生きればいい。




ポケットの中で、スマホが震えた。




「……誰だよ、こんなときに」




気怠そうに画面を見ると、そこには父からの短いメッセージが表示されていた。




「自分勝手に、生きろ。」




その文字を、何度も読み返した。


笑うべきか、泣くべきか…エミにはわからなかった。




サイドラインに沿って、誰のものでもないボールが転がっていた。




ふとした弾みで、それは静かにエミの足元へと転がってきた。




静寂――。




フィールドの中央から、レオが声を上げた。




「エミ! パス頼む!」




エミは視線を落とした。


足元のボール、目の前に広がるフィールド、そしてジャケットの布越しに感じる春の陽射し。




その瞬間だった。


ずっと押し殺してきた鼓動が、再び胸を打った。


心の奥で眠っていた声が、微かにささやく。




エミは微笑んだ。




「ありがとう、パパ…」




そうつぶやいて――


彼はつま先をボールの下に差し込み、前方へと跳ね上げた。




そして、走り出した。




迷わず、ためらわず。


何年も閉じ込めてきたエネルギーが、今、解き放たれたように。




「止めろーーっ!」


レオが情熱のこもった声で叫ぶ。




すぐに二人のディフェンダーが飛び出し、進路をふさぐ。




「ここは通させないぞ」


ジロウが重心を低く構えて、立ちふさがる。




だが、エミは一切動じなかった。




彼は軽やかにかかとでボールを浮かせ――


そのまま二人の頭上を抜き去った。




完璧な弧を描いたボールは、レオの足元に吸い込まれるように落ちた。




「なっ…!?」


ジロウが驚きの声を上げる。




レオは一瞬の迷いもなく、三本指でカーブをかけたパスを放つ。


それは誓いのように美しく曲がりながら、ペナルティエリアの角へと向かった。




そこには――




イェンがいた。


静かに、まっすぐ立っていた。


顔には緊張も焦りもなく、ただ静けさだけが宿っていた。




「通すなーっ!」


ユウジロウが絶叫しながら駆け寄る。




ボールは、今まさにライン際。




エミにはもう余裕がなかった。


咄嗟に、ラボーナの体勢で足を振るう。


パスは通った。…だが、少し短い。




「届かない…っ」


エミの瞳が見開かれる。




イェンはためらわなかった。


無音のまま回転し、両足で空を蹴り上げる。




その身体は、まるで計算された軌道を描くコンパスのように回転し――


ボールが地に落ちる寸前、鋭く乾いた一撃を放った。




それは、まるでメスで切り裂かれたかのような一線。




ボールは一直線に左上のポストへと吸い込まれ、


衝突音がグラウンド全体に響いた。




「よっしゃああああ!!!」


レオが声を張り上げ、歓喜に包まれる。




誰もが言葉を失っていた。


その場の空気が凍りつくほどの静けさ。


だが、ネットに揺れるボールの音だけが、現実を証明していた。




肩で息をするレオが、エミを横目で見た。




……嘘じゃなかった。


この反応、この視野、この魂。


間違いない。彼は――




「完璧なサイドバックだ」




* * *




【シーン:校舎2階 音楽室】




校舎の二階、半開きの窓から外を見下ろす少女の姿があった。




ウミは黙って、グラウンドを見つめていた。




夕陽が差し込み、彼女の髪をあたたかく照らしていた。


彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。




「ウミ、終わったの?」


奥の席からハルの声がする。




「うん」


ウミは視線を外さずに返事をした。




「なんだか嬉しそう。何かあった?」




「別に…特別なことなんてないよ」




ポケットの中で、スマホが小さく震えた。


開かれたチャット画面。


今、誰かに送信されたばかりの写真。




それは――


グラウンドの端で、サッカーを見つめるエミの姿だった。




宛先:西村ユウエイ




ウミはもう一度、窓の外に目を向けた。




そして、その微笑みはさらに優しくなる。




――やっと、君は戻ってきた。


ずっと望んでいた場所へ。

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