第40話 ……やってしまおう。

 不貞って、既婚者が、配偶者以外の人と肉体関係を持つことを指す言葉だよ?

 わたしとリチャード様なんて、婚約者でも夫婦でもなんでもないのよ?

 そりゃあ両親同士がわたしをリチャード様を婚約させたがっているけれど、法的な関係なんて、これっぽっちもない。

 仮にわたしがリアム様と何か関係を結んだとしても、不貞も浮気も全く関係ないし、わたしとリアム様の関係に、リチャード様から何か言われる筋合いもない。

「……テレンス。ちょっと聞きたいんだけど、いいかな?」

リアム様がぼそっと言った。

「リアム様?」

「うん、君の弟が、ボクとニーナのことを『不貞』とか言ってきたけど」

「……言葉の意味も知らない馬鹿な弟が申し訳ない。きっと『浮気』程度の意味で使ったのかと……」

「いや、テレンスが謝ることじゃないんだけど。ボクとニーナが知らないうちに、ニーナのご両親とテレンスのご両親がニーナと君の弟の婚姻を勝手に結んでいたのかなーとちょっと思ってしまったんだけど。だったら婚姻関係無効の申請を出して、その処理をしないとあっちの国に帰れないなーって」

 あ、きっと、リアム様はわかってて、わざと言っているのね。

「両親だけで、婚姻する当事者……つまり、ニーナのサインなしで、婚姻届が受理されることはないから、単に、言葉を知らないリチャードが馬鹿なだけだよ……」

 テレンス様が、もう取り繕うこともしないで、リチャード様のことを馬鹿と言ったわ……。

 心の中で、ものすごく賛同。

「ば、馬鹿とは何だ馬鹿とは! いくら兄上と言えどもそんな暴言は許さない!」

 激昂するリチャード様だけど、テレンス様は呆れ顔。

「リチャード、お前とニーナは法的には何の関係もない。親同士が親しくて、その結果子ども同士も昔から交流があっただけだ。敢えて言うなら幼馴染という程度。ニーナが誰とどんな関係を結ぼうが、お前に咎める権利はないよ。不貞でも浮気でもなんでもない。ニーナが誰を選ぼうが、ニーナの自由だ」

 ありがとうございます、テレンス様。

 わたしは頷いた。

「わたしが誰を恋人や夫に選んでも、リチャード様になんて関係ない話です。わたしとリチャード様は、未来永劫、完全に、無関係。あなたはわたしの婚約者でも夫でも、恋人ですらない。わたしがあなたを愛することは絶対にないし、わたしが一生側にいたいのは、このリアム様だけです」

 ここまではっきり言ったのに。

 リチャード様には通じなかったらしい。

 わたしを睨みつけてきた。

「ふざけるなよ、ニーナ! お前が好きなのはこのオレだろう! 素直になって、さっさと謝れば、一度くらいの不貞には目をつぶって結婚もしてやるけどな!」

「は……?」

 誰が、誰を好きだって?

「初めて出会った時、ニーナはオレに惚れたじゃないか」

 ……何を言っているんだろう、リチャード様は。

「そんな事実はありません。リチャード様の勝手な思い込みですね。自意識過剰なの?」

 初対面の時は、金髪まき毛で、濃い目の青目をしたリチャード様を見て、思わずポーっと眺めてしまったことは事実だけど。惚れてなんてないし、仮に、初対面の時に外見に魅かれたとしても、その後の暴言で果てしなくマイナスになっている。惚れるなんて、ありえない。

「わたし、あなたに好きだなんて一言も言ったことはありません。嫌だと言ったことなら何度もありましたけど」

「そんなのニーナの照れ隠しに決まっているだろ。いい加減、素直にオレのことを好きだと認めろよ」

 呆れた。

「……馬鹿なの?」

 思わず、わたしも言ってしまった。

「照れ隠しなんかじゃないです。わたし、家出するほどリチャード様が嫌いです」

「馬鹿なのはニーナだろ。オレの気を惹くために嫌いとか嘘ばっかり言ってさ。そういうのはもういいから。素直になれば、それなりにかわいがってやるんだからさ」

 気を惹く?

 ……気持ち悪い。何なの、コイツ。

 照れなんかじゃなく、本気で嫌なんだけど。

 リチャード様の勝手な思い込みも、ここまでくると恐怖でしかない。

 もうこれ以上話の通じないリチャード様に何を言っても時間の無駄かもしれない。

 さっさと左手でリチャード様をひっぱたいて、『ハゲろ』『モゲろ』『切れ痔』『いぼ痔』『水虫』『インキンタムシ』の魔法をかけてしまおうか。

 わたしは、わたしの左手をちらっと見た。

 先輩たちが左手にかけてくれた、リチャード様専用の魔法。

 込められている魔力。

 先輩たちの魔法が失敗するなんて思っていない。

 ひっぱたけば、即座に魔法が発動するだろう。

 だけど……、その程度で済ませていいのかな?

 仮に、ハゲて、モゲて、切れ痔といぼ痔になって、水虫とインキンタムシに罹患したとしても。

 ……他人の話を聞かないで、自分の物差しでしか見てこないリチャード様が真っ当な人間になるとは思えない。

 魔法をかけても、それでも、わたし、今後も迫られるかもしれないし……。

 わたしの身の安全のために、もっと、根本から、リチャード様をへこませるほうがいい……よね。

 先輩たちの魔法は、すばらしいけど、今後のわたしの自衛とするには……弱い、気が、する。

だったら……。

「リアム様」

 わたしは、リアム様の耳元で、ぼそぼそと、少し、呟いた。

 近くにいるテレンス様にも聞こえないくらいの、小声。

 言い終わって、ちらっとリアム様を見る。

「……まあ、そのくらいはできるよ。ボクがやらなくても、ニーナもできると思うけど。『物質の形状変化』と『人体構造』の本、熟読して、そのあたり、マスターしただろ」

 ハイマン先生からの課題。『物質の形状変化』の本はレポートをきっちり書いたし。練習も、たくさんした。

 アンディ兄様の課題の『人体構造』の本も、興味があって、読んで。わからないところはリアム様に聞いていたし。

 そこに書いてあった魔法の理論。

 先輩たちの『モゲろ』の魔法の応用。

 更に、先輩たちが、わたしの左手に込めてくれた、魔法のエネルギー。

 しかも、リチャード様にしかかからない、専用の力。

 ……うん、できる。

 ……やってしまおう。

 わたしが、リチャード様にこれからかける魔法で。

 好きでもない相手から、婚約だの婚姻だのを迫られる恐怖を、身をもって体験して、それで反省をしてほしい。

 もしも、そこまでやって、反省も後悔もしないのなら……、まあ、それはそれで。

 だって、この魔法をリチャード様にかければ。

 わたしの身は、完全にリチャード様の恐怖から、守られる……。

 よし。

 これは、自衛。わたしが自分の身を守るために必要なこと。

 一年間、Sクラスのみんなと研鑽してきたわたしの魔法。その集大成。

 更に、リアム様に最初に見せてもらった金色のキラキラも融合して、魔法を構築する。

 よし。

 わたしは、しがみついていたリアム様の腕をそっと放すと、立ち上がって、真正面からリチャード様を見た。




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