ゴブリンって夏の季語?
彗星愛
プロローグ:ゴブリンって夏の季語?
夜の帳が降りた街の片隅で、
齢八十を目前にしたその老人は、「現代俳句の至宝」「生きる伝説」と称され、数々の文学賞を総なめにしてきた、現代俳句界の最高権威である。
だが今、彼の脳裏では言葉たちが狂奔し、ある種の絶望にも似た渇望を抱えていた。
彼の頭の中は、今まさに五七五の律動で満たされていた。
今日のテーマは「夏」。
だが、彼の辞書に「ありきたり」という言葉は存在しない。
蝉しぐれ? ひまわり?
そんなものは遥か昔に詠み尽くし、凡庸な弟子たちにくれてやった。
彼が求めるのは、この世の理を超越した、未だ誰も足を踏み入れたことのない「究極の季語」。それは彼の俳句人生において、唯一残された探求だった。
「『五月雨や 池にひかれて
悠月はブツブツと独り言を呟きながら、夜道をふらふらと歩いた。
街灯が彼の皺だらけの影を長く伸ばし、やがて交差点の真ん中に差し掛かっても、その思考は止まらない。
信号が赤に変わったことにも、けたたましいクラクションの音にも、彼は一切気づかなかった。彼の耳には、ただ完璧な十七文字の調べだけが響いていた。
「『梅雨空に 水跳ねて魚 空を舞う』……うむ、悪くはない。だが、凡庸。凡庸だ。……そう、生命の根源に触れるような、それでいて世の全ての穢れを洗い流すような、あるいは人間の業を全て肯定するような、夏の情景が……いや、季語そのものが、見る者の運命を塗り替えるような、そんな絶対的な存在が……!」
彼の脳裏に閃いたのは、以前、何気なく読んだファンタジー小説に出てきた、醜悪で緑色の小鬼――ゴブリンの姿だった。
「ゴブリン……。こやつは、どうだ? 夏の蒸し暑い森の奥、薄汚れた巣穴で、汗と血の臭気にまみれて蠢く小鬼……。その悍ましさ、野蛮さこそが、現代文明が失った原初の生命力、夏の混沌とした熱量を象徴する究極の季語となり得るのでは……! うむ、いける。いけるぞ!」
究極の季語を見つけたと確信した悠月は、満面の笑みを浮かべた。
彼の瞳には、もはや周囲の光景など映っておらず、ただ「ゴブリン」という言葉が夏の季語として昇華される、
壮大にして奇抜な俳句のビジョンが見えていた。その瞬間だった。
キィイイイイッ! ドォン!
耳をつんざくような急ブレーキの音と、身体を突き上げる鈍い衝撃が、悠月を襲った。視界が白く閃き、やがて真っ暗な闇に吸い込まれていく。
しかし、彼の意識が途切れる直前、脳裏をよぎったのは、痛みでも恐怖でもない、純粋な俳句への情熱だった。
「……あ、ゴブリン、季語にするなら、ちゃんと字余りにならないように整えないと……この究極のインスピレーションを、何としても十七文字に叩き込むのだ……!」
そんな彼らしい間の抜けた呟きと共に、意識は闇へと沈んでいった。
***
次に悠月が目を開けた時、彼の視界に飛び込んできたのは、見慣れない木の天井と、彼の顔を覗き込む、絵本から飛び出してきたような巨大な緑色の豚のような生き物だった。
しかし、彼はまだ知らなかった。
この世界では「ゴブリン」が夏の季語どころか、「俳句」という概念すら存在しないということを。
そして、究極の季語を探し求める、常軌を逸した俳句の感性が、この俳句なき世界でどのような騒動を巻き起こし、どのような新しい「季語」を生み出すことになるのか。
その片鱗すら見えていなかった。
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