第8話 幸福という名の牢獄




 御子柴博士が遺したビデオメッセージは、あまりにも衝撃的だった。


 ルカス・ミュラーは自らの誤りを守るためだけに、唯一の理解者であり、父親代わりでもあった恩人を手にかけていた。

 そして博士の死後、彼は自らの理論の欠陥を埋めるためか、あるいは全く別の未知なる目的のためか、人の感情を集める壮大な実験を、 あたるの住む街を舞台に繰り返している。


 全てのピースがはまり、パズルは完成した。

 だがそこに現れた絵はあまりにも醜く、そして悲しいものだった。


「……これが、動かぬ証拠だ」


 証拠品保管施設の冷たい空気の中、橘警部が険しい顔で呟いた。


「博士のビデオメッセージと死の再捜査。

 そしてこれまでの事件との関連性を立証すればルカス・ミュラーに対する逮捕状請求は可能だ。

 今度こそ、上が何を言おうと俺が通す」


 その言葉には、刑事としての強い決意が込められていた。

 だが、発はそれを静かに制した。


「待ってください。……僕がルカスに会って、直接このメッセージを伝えます」

「何だと!?」

「博士が本当に伝えたかったこと。それを伝えて彼に自首を促します。

 彼が犯した罪は許されることじゃない。でも、その前に僕にはやるべきことがある」


 橘警部は信じられないものを見るような目で発を見た。


「ダメだ、小僧。奴が素直に応じると思うか?

 ……どうなるか分からないんだぞ」


 橘警部の言葉には生半可な覚悟では発の提案は受け入れないという語気を多分に含んで発に向かい合った。


「それでも僕は試したいんです。

 博士は彼を『救ってくれ』と言った。法で裁く前に、僕がやるべきことです。

 僕にしかできないことです!」


 発の瞳に宿る、揺るぎない覚悟。

 それはこれまでの事件で見せた科学者としての好奇心とは全く異なる、重い責任を背負った者の光だった。

 橘警部は深くため息をつき、「……こちらの証拠集めが終わるまでの間に何とかしろ。それと、奴が尻尾を出したら、その時は容赦しない」と発に告げた。


 だが、発が決意を固めた時には、既に全てが遅すぎた。

 ルカス・ミュラーの計画は、もはや発の説得で止められるような段階をとうに超えていたのだった。




「皆さん。我々の社会は今、相次ぐ大規模なテロや暴動により、未曽有の危機に瀕しています。

 友や家族、愛する人と安心して暮らすはずだったこの街が、恐怖と不信に覆われようとしています。

 皆さんが抱く不安と怒り、この私自身も痛いほど感じています。


 しかし、私は今日、この場に混沌を嘆きに来たのではありません。ましてや、ただ現状を憂うために来たのでもありません!


 私、そして私が率いる『クロノス・インダストリー』が、この絶望的な状況を打破するためにこそ、ここに立っています。

 集結した優秀な同志と共に、持てる技術のすべてを注ぎ込み、この危機に終止符を打つための答えを導き出しました。


 本日、政府との強固なパートナーシップの下、その答えである次世代都市管理システム『ハーモニー・システム』の首都圏におけるテスト導入を、正式に開始することを、ここに宣言いたします!


 これは単なるシステムではありません。

 子供たちの笑い声が響き、誰もが夜道を案ずることなく歩ける、あの穏やかな日常を取り戻すための我々の希望の「盾」です。


 ご安心ください。皆さんの、そして私たちの未来は、この『ハーモニー・システム』が、そしてこの私が、必ず守り抜きます!」


 政府は緊急に次世代都市管理システム『ハーモニー・システム』の首都圏におけるテスト導入を発表した。

 その際、ルカス自ら登壇し、人々に訴えかけ、会場から拍手喝采を浴びていた。

 その姿は万人の心に寄り添った聖人そのものだった。


 発はタブレット越しにそんな彼を見つめ、暗澹たる気持ちになり、タブレットの面を下にして、そっと机の上に置いた。

 発は椅子の背もたれに体を預け、電気の点いていない天井を見つめ、これまで感じたことのない混沌とした暗闇に迷い込んだような気持になっていた。




 『ハーモニー・システム』の導入が決まり、翌日から急ピッチで工事が行われ始めた。


 『ハーモニー・システム』とは、都市中に張り巡らされた通信ネットワークから微弱な電磁波を放ち、人々の脳に直接作用して、攻撃性や嫉妬、怒りといった負の感情を強制的に取り除き、代わりに穏やかで持続的な幸福感を与えるという、巨大な感情コントロール装置だった。


 相次ぐ事件に疲弊し平和と安全を切望していた人々は、その画期的なシステムの到来を熱狂的に歓迎した。

 そして、その実現者であるルカスを救世主(メシア)だと崇め始めた。


 工事の大部分が終わり、システムが稼働を開始した朝、発は登校中に奇妙な感覚に襲われた。

 頭の中にまとわりつくような、不快なノイズ。それはごく微弱で、常人なら気づきもしないだろう。

 だが発の研ぎ澄まされた感覚は、それが外部からの意図的な干渉波であることを見抜いた。


 ――これか。ルカスのシステムの効果は。都市規模のマインドコントロール。


 発はすぐに踵を返し、学校ではなくラボへと向かった。

 そして、以前から研究していた感情干渉への対策として試作していた、ペンダント型のノイズキャンセラーを起動させた。

 首にかけると、まとわりついていた不快なノイズがすっと消え、思考がクリアになる。

 発は学校に行くことをやめ、葵のためにノイズキャンセラーペンダントの作成に取り掛かった。




 発がペンダントを完成させるまでの数日の間に、街の風景は一変していた。

 気付けば、ラボの窓から見える日常はとても静かで、とても穏やかで、そして不気味なほどに理想的な世界へと変貌していた。


 一見すると、誰もが求めて諦めていた、平和で美しい光景だ。

 言い合いもケンカも事故も無い、あらゆるトラブルを生活から排除した世界。


 しかし発には分かっていた。

 そこには熱意も、活気も、人間らしい感情の揺らぎも一切感じられない。

 怒りや悲しみといった負の感情だけでなく、それを乗り越えようとする強い意志や情熱までもが、ごっそりと抜き取られてしまったかのような無機質な世界だった。


 それは学校の空気も同様だった。

 生徒はみんな落ち着いていて穏やか。授業の進みを妨げるよな生徒は一人もおらず、どの部活も淡々としていて――、学生らしい活気が失われていた。


 放課後、夕陽が差し込む教室で、発は一人帰る準備をしていた葵に声をかけた。

 他の生徒たちは穏やかな笑みを浮かべながら、無言で教室を出ていく。

 いつもなら聞こえるはずの、部活や放課後の時間の使い方の相談をする声はどこにもない。


「葵」


 発が声をかけると、葵はゆっくりと振り向き、穏やかに微笑んだ。


「アタルくん。まだ残ってたんだ?」


 葵と目が合っているのに目が合っていない。


 ――これは葵の笑顔じゃない……。


「つ、次の新聞記事のテーマ、何にしようかって、この前悩んでただろ? 

 何か見つかった?」

「うーん……」


 葵は少しだけ首を傾げて少し考えた後、作られた笑顔を発に向けた。


「何でもいいかな。だって、もう事件なんて起きないもの。世界は、こんなに平和になったんだから」


 その声には、以前の彼女が持っていた情熱の欠片もなかった。

 いつもなら、どんな些細なことでも「これはスクープになる!」と目を輝かせていたはずの彼女が。


 発の中で数日間溜め込んできた焦燥と怒りがついに限界を超えた。

 発は葵の肩を掴み、叫んでいた。


「どうして何も感じないんだ! 君はそんな人間じゃなかったはずだ! 悔しいとか、許せないとか、そういう気持ちはどこへ行ったんだ! こんなもの平和なんかじゃない! ただの感情の墓場だ!」


 発の悲痛な叫びに、葵は困ったように眉を顰め、教室にまだ数人残っていた生徒たちが一様に困惑したような、それでいて穏やかな表情で彼を見つめる。


「発は昔から空気が読めないな。

 みんなが幸せなのがそんなに気に入らないのかい?」


 一人の生徒が純粋な疑問としてそう口にした。

 その言葉には非難も怒りも含まれていない。

 それが発を何よりも発を深い孤独と焦燥の底へと突き落とした。


 発はたまらず教室を飛び出し、走りながら、すがるように橘警部に電話をかけた。


「警部、街は完全におかしいです! みんな感情を奪われています!」


 電話の向こうの橘警部の声はいつになく歯切れが悪かった。

 けれど、街の住人のように穏やかで無気力なものではなかった。


『……ああ、分かってる。気味が悪いんだよ、今の街は。

 誰も怒鳴りもせず、笑いもしねえ。まるで能面を被ったみてえだ。

 こんなもんが平和だってんなら、俺はごめんだね』

「警部は、平気、なんですか?」

『今かよ! ……なんとかな。

 俺たちみてえな商売はな、物事を疑うのが仕事なんだ。

 完璧すぎる状況ってのは、大抵裏に何かデカい嘘が隠されてる。

 長年の刑事のさが、とでも言っとくか……。

 この偽物の平和は、何かとんでもねえもんで塗り固められてる気がしてならねえんだ』


 橘警部の精神は、長年の刑事経験によってシステムの画一的な支配を本能的に拒絶していた。


『だがな……』と橘警部の声が沈む。


『もう、どうすることもできん。

 システムの導入後、犯罪発生率が過去最低を記録したんだ。

 上からルカス・ミュラーには手を出すなと指示があった……』


 無力感を滲ませた声と共に、通話は一方的に切れた。

 

「このままだと人類が、ルカスの用意した巨大な鳥かごの中で与えられた餌をついばむだけの幸福な鳥になってしまう……」


 発は急いでラボに戻り、作りかけの二つ目のペンダントを力強く握りしめた。




 翌日、発は登校してくる葵を昇降口で待ち構え、人気のない廊下へと連れて行った。


「葵、これを」


 発は作製したノイズキャンセラーペンダントを、葵の首にそっとかけた。

 ペンダントが起動し、クリスタルの部分が葵の胸元で微かな光を放つ。

 その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれ、焦点が合った。

 

 数秒間、彼女は混乱したように周囲を見回し、そして自分の置かれていた状況を理解した。


「……っ、え……?  私、何を……、してたの……?」


 葵の瞳に、以前の強い光が戻った。


 正気を取り戻した彼女は、自分がここ数日間、何の疑問も抱かずに、まるで生ける屍のように過ごしていたことに気づいた。

 そして、穏やかな顔ですれ違う生徒たちの瞳の奥にある空虚さに気づき、その偽りの平和の恐ろしさに、わなわなと震えだした。


「怖い……、怖いよ、アタルくん……。みんな、おかしい……」


 恐怖の涙が葵の頬を伝う。

 だが、涙はすぐに燃えるような怒りの炎へと変わった。


「……許せない」


 葵は自分の胸のペンダントを強く握りしめた。


「勝手に人の心の中に入り込んで感情を盗んでいくなんて……!

 悔しいって思うことも、悲しいって泣くことも、全部、私のものなのに!

 それを勝手に奪って、偽物の幸せを押し付けるなんて!

 こんなの、絶対に間違ってる!」


 それはジャーナリストとしての正義感と、一人の人間としての尊厳を蹂躙されたことへの魂からの叫びだった。


「アタルくん……、ありがとう。ごめんね、私、アタルくんを一人にして……」

「謝る必要はないよ。悪いのは君じゃない。

 ……僕も、もう一人で悩むのはやめだ。

 直接ルカスに会って、博士の想いを伝えて、この穏やかな牢獄をぶち壊す!

 葵にも力を貸して欲しい」

「もっちろん!」




 発と葵はこの静かな地獄を終わらせるため、二人だけの戦いを決意した。

 しかし、その相手はあまりにも巨大で、世界そのものが敵になろうとしていた。


 二つの太陽のうち、一つは世界を偽りの光で照らし、もう一つは少女の怒りを道連れに、深い影の中から反撃の機会を窺っていた。

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