笑み

東村 啓助

恵美

 夜の帳が降りた都会のマンション、その一室。

 冷たい床に妻が横たわっていた。白いパジャマには赤黒い染みが広がり、部屋にじんわりと血の匂いが満ちている。

 ソファに沈む俺は、その匂いでひどい貧血に襲われ、しばらく動けなかった。吐き気とめまいで意識がぼやけ、額から汗が垂れ落ちていた。


 少しずつ目の前が明瞭になってくると、次に押し寄せてきたのは、「どうしよう」という焦燥だった。

 死んでいる。俺が殺した。何度思い直しても、そこにあるのはその事実だけだった。


 部屋は静まり返っている。隣人は寝ているのだろう。物音ひとつ聞こえない。

 けれど――なぜか、俺は「誰かが見ている」ような感覚を振り払えなかった。

 視線を感じる。明確なものではない。ほんのわずか、皮膚にまとわりつくような気配があるだけ。


 死体はソファのすぐ傍に横たわっていた。仰向けで、目を閉じたまま。顔は……俺の方を向いていなかったはずだ。

 そう、自分に言い聞かせる。だが、ほんの少し、ほんの少しだけ顔の向きが違うような気がしてならない。


 まさか。


 気のせいだ。目の錯覚。照明の位置のせいだ。そうに決まってる。

 それでも俺は、妻の顔をもう一度しっかりと見た。顔の向きを確認しようとして。

 そして――その瞬間、背筋に氷のようなものが走った。


 笑っていた。


 口角が、わずかに上がっている。いや、最初からそうだったのか?違う。確かに違う。死んだときは、無表情だった。そう記憶している。目を閉じて、力なく倒れたはずだ。

 だが今は、唇の端がわずかに吊り上がり、「にやり」としていた。


 怖くて、目を逸らした。冷や汗が頬をつたった。鼓動がドクドクと耳の中で響く。

 俺は、その場から逃げ出したかった。逃げて、どこか誰もいないところに消えてしまいたかった。だが身体が動かない。足が床に縫いとめられているようだ。


 ――気づいているのか?


 妻は本当に死んでいるのか?もしかしたら、まだ意識が残っていて、俺を見ている?それとも、そうじゃない。もう妻ではなく、“別の何か”になってしまっている?

 わからない。ただ、その笑みが、頭に焼き付いて離れない。見下しているような、勝ち誇ったような、あるいは愛しているような……わからない。わからない。



 ふと、インターホンの小さな音が鳴った。ピンポーン。

 ビクッと肩が跳ねた。時刻は深夜2時。誰が?こんな時間に?


 俺はそっと立ち上がり、モニターを覗いた。だがそこには何も映っていない。

 その一瞬、白っぽい布のようなものが画面の端に映った気がした。パジャマ?いや、気のせいだ。こんな時間に誰が?....そんなはずない。


 もうだめだ。まともじゃいられない。すべて夢だったらいいのに。夢なら――。

 無意識に妻を見てしまう。やっぱり、笑っている。あれは、死体の表情じゃない。感情が宿っている。そうとしか思えない。



 ――どうしてこうなったのか。何度も思い返す。


 出会いは数年前の合コンだった。

 その場のノリで連絡先を交換し、すぐに二人きりで会うようになった。

 明るくて、よく喋って、笑い方が少し大げさで。

 その時はそこが魅力に思えた。こちらが沈黙しても、彼女がいれば空気が明るくなった。


 出会って半年も経たないうちに、籍を入れた。今思うと勢いもあった。周囲からは「早すぎる」と言われたけれど、当時の俺にはそんな言葉は届かなかった。

 なんとなく「この人なら大丈夫」と思った。



 些細な違和感を感じ始めたのは、一緒に暮らし始めて2ヶ月ほどたった頃だった。洗い物を放置するようになった。掃除をしなくなった。食事がコンビニ弁当ばかりになった。

 共働きだったから、家事はもともと分担していた。俺も料理はしていたし、掃除や洗濯だって手を抜いていたわけじゃない。


 けれど、彼女はだんだんと何もしなくなっていった。買い物にも出かけなくなり、休みの日は一日中ベッドの上でスマホをいじり、動画を見ながら菓子をつまむ。


 最初は「疲れているのかな」と思った。仕事のストレスかと思って、無理に口出しはしなかった。

 でも、それが何ヶ月も続いた。

 やがて、彼女は仕事も辞めた。


 加えてあるときから、彼女の匂いが気になるようになった。最初は「今日はちょっと汗をかいたのかな」程度だった。

 だが、妙に鼻につくようになっていった。うまく言えない。酸っぱいような、発酵したような奇妙な匂い。

決して強烈な悪臭というわけではないのに、嗅いだ瞬間、吐き気に近い嫌悪感がこみ上げる。


 俺の感覚がおかしくなったのかもしれない。疲れていたのかもしれない。

 だけど、それは日に日に強くなっていった。彼女の枕の匂い。浴室に残る蒸気。すれ違ったときの髪の香り――。全部が、無理だった。


 もちろん、伝えられなかった。

 言えば傷つくだろうし、そもそも理屈じゃなかった。香水を贈ったり、シャンプーを変えさせてみたり、さまざまな方法をとってみても、生理的に受け付けなくなっていったのだった。


 それでも彼女は、こちらの戸惑いに気づいていないかのように、スキンシップだけは激しくなっていく。笑いながら背後から抱きついてきたり、耳元で息を吹きかけてきたり。

 ……怖かった。彼女の本心が。匂いが。

ほんの少しずつ、家に帰らなくなっていったのは、その頃からだった。


 そんなとき、別の誰かに出会った。軽い気持ちだった。逃げ道が欲しかっただけ。けれど――それが地獄の始まりだった。




 ふと、目の前の“今”に意識が戻る。あの笑み。死んだはずの妻の、わずかに吊り上がった唇。

 何も語らないくせに、すべてを見透かしているような顔。


 部屋の照明が、少しだけ揺れたような気がした。風なんてないのに。窓は閉まっているのに。

 テレビの画面に、何か白い影が映った気がした。

 今はもう、映っていない。何もない。ただ、自分の顔だけが暗く映っている。



 笑っていないか?

 俺も。妻も。似たような顔をして。



 ぐるぐると、笑顔が頭の中で回り始める。過去の笑い声と、今の沈黙が、同じ形で脳に焼き付いている。

 再びめまいがした。目を閉じたら、あの顔がまぶたの裏に浮かぶ。


 ――もう、戻れない。どこにも。


 ふと、自分の身体から、あの匂いがすることに気づいた。

 妻と同じ、あの匂い。嫌悪したはずの、あの香りが、自分の肌から立ちのぼっている。

 笑ってしまう。笑うしかなかった。


 俺はこの先もずっと、この笑みから逃れられないのかもしれない。

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