18.嗚咽


「ごめんね、二人には、ほんとに迷惑かけちゃった」

 病室に戻ると、自分のベッドにかるく腰かけて、まりやは、すまなそうに頭を下げた。

「そこ、椅子あるから、使って、座って」

 指さされた先に積み重ねてある、座面が丸く背もたれのない木の椅子を、颯太が二つ運んできて、まりやのベッドの隣に並べた。

 部屋は四人部屋らしいが、他に入院患者の姿はない。

「寝てなくて大丈夫なのか? マリ」

 颯太の言葉に、まりやは肩をすくめた。

「毎日毎日朝から晩までずっとここにいるんだよ? ずっとなんて寝てられないって」

「それもそうか」

 颯太は苦笑しながら、かすみに椅子を示した。かすみがうなずいて、そこに腰かけると同時に、颯太も椅子に腰を落ち着ける。

 かすみは、ちらりと、わずかに上目遣いでまりやを見た。

 大丈夫と口にはしているけれど、まりやの動きはとてもゆっくりとしていて、学校で見ていた時のような元気さは感じられない。一つ言葉を口にするたびに、溜息をごまかすための微笑みを浮かべていることがわかる。

 まりやの目が、じっとかすみに向けられた。

「それで……ニコは、どうしてる?」

「村岡先輩、ですか」

「うん」

 まりやは、うっすらと微笑みながら、うつむいた。

「すごく、迷惑かけちゃった……私が勝手して、ワガママ押し通したから」

「村岡先輩、お見舞いには来られてないんですか?」

 まりやの顔に、苦痛の色が浮かぶ。

「――呼べないよ、さすがに」

「おばさんか?」

 颯太が問うのに、まりやは苦し気にうなずいた。

「私が、お母さんからオッケー出てるからって、嘘ついて花火大会行っちゃったから、お母さん、一緒にいたニコのこと、殴っちゃったんだよ……私が全部悪いのに、ニコが私を連れ出したって言って聞かないの」

「説明は、したんだろ?」

「しても聞かないよお母さんは……!」

 思わず力をこめて声を出したせいか、まりやがせこむ。椅子を鳴らして、さっと颯太が立ち上がり、その背中をさする。噎せこみからのえずきに代わり、まりやの目に涙が浮かぶのを見て、かすみは慌てて立ち上がり、床頭台からティッシュボックスを取って手渡した。

「ごめん、ありがとう」

 ティッシュで口元をぬぐうと、それを握りしめたまま、まりやは「はあ」と溜息をついた。

「お母さんには、わかってもらえない。もう、そこは諦めたからいいよ。でも、ニコは何にも悪くないのに……お母さんに心配かけたのはわかってるけどっ……殴るなんて」

 嗚咽まじりに、まりやの呼吸がどんどん荒くなってゆく。

 まりやの手が、自分の額をかかえるようにして短くなった髪をつかむ。ぎゅっと、握りしめられた指先に、何本もの髪が絡み付く。ゆっくりと、まりやはその手を下におろした。

 何十本と、抜けた髪が、その手のひらに残っているのを見て。かすみは息を飲み、颯太は表情を消し、そして、当のまりやは――ぼろりと涙をこぼして、笑った。

「謝りたいけど、会えない。こんな姿、こんな髪、ニコに見られたくない……」

 隣に座る颯太が、膝の上で、ぎゅっと手を握りしめている。

「マリは、本当に、それでいいのか? 会わないで、後悔しないか?」

「するよ。そんなのするに決まってるじゃない。でも、見られるのも嫌なんだよ。――颯ちゃんには、わかんないよ……」

 ベッドの上で膝を抱え込み、そこに顔をうずめるまりやを見て、かすみは唇の内側をかんだ。

「ねぇ、かすみちゃん」

「は、はい」

「お願い、わがまま言ってるのは、わかってるんだけど、ニコがどうしてるか、時々でいいから、聞かせて……ごめんなさい、お願いします」

 涙声でのお願いに、かすみの胸がぎゅうと痛む。

「じゃ、じゃあ……わ、わたし、連絡、しますから、まりやさんの、ラインのアドレス、教えてください」

 声が震えそうになるのを、必死でおさえながら、かすみがスマホを取り出して言うと、まりやは、涙でぐしゃぐしゃにした顔を上げて、ゆっくりと溜息をついてから、「うん」とうなずいた。

「ありがとう。ごめんなさい」



 面会の許可された時間は短く、呼びにきた看護師にうながされて、かすみと颯太は病室を出た。

 病室の入り口まで、見送りに立ったまりやは、二人がエレベーターに乗り込むまで、ずっと、かすみ達のことを見つめて、そして手を振った。

 エントランスを出た先では、来しなに降っていた雨は上がっていたけれど、かすみと颯太の心にし掛かる重さは、桁違いのものになっていた。

 どちらからも言葉はなく、ただ、黙って駅へ向かって歩き出した。

 二人、目の当たりにしたまりやの変化に、言葉にできないほどのショックを受けていた。

 差してきた傘は、閉じられて、それぞれの片手に下げられている。

 閉じた傘の分、並ぶ二人の距離は縮まっている。

 曇り空は、重い灰色だ。心に、未来に、そして、まりやが病室の窓から見る景色に、それはずっしりとフタをする。

 かすみの頬を、一滴のしずくが下った。反対の頬にも、同じ一滴。

 ぎゅっと、かすみの手が握られた。見上げれば、前をじっと睨む颯太の頬にも、同じものが伝い落ちていて、それは彼のつんと尖った顎先から、ぱたぱたと胸に滴り落ちていた。

 かすみはぎゅっと下唇を噛んで、颯太の手を強く握り返した。

 人気のない路地裏に入り、コンクリートで四角に切り取られた、小さなトンネルの中に入ると、かすみの手がぐいと引き寄せられた。

 とん、と背中がトンネルの壁にぶつかる。

 息を震わせながら吸い込むと、颯太はかすみを力いっぱい抱きしめた。

 震えながら涙を押し殺し、かすみの首元に顔をうずめる颯太に、かすみの目からも涙があふれた。

 なんのための涙なのかも、もうわからない。

 ただそれでも、この時のかすみと颯太が、同じ痛みを共有していることは、確かだった。

 何かが、自分達の生きている世界から、ほろりと零れ落ちようとしている。

 それを、どうにかして押しとどめたいけれど、何をどうすればいいかもわからない。

 ただ、目を大きく見開いて、それが崩れてゆくところを見守ることしかできない。

 それが、こんなにやるせなく、こんなに苦しいものだなんて思わなかった。

 それは、まりやの命そのものでもあったし、まりやと颯太のこれまで積み重ねてきた時間でもあった。また、これからはじまるかも知れなかった、かすみとまりやの未来でもあったし、何よりも、まりやと村岡の間にあった、あの笑顔と「おかえり」の瞬間の耀かがやきだった。

 傘をつかんだ手ごと、かすみは颯太の背中を抱きしめた。夏の間に伸びた颯太の身長の分、かすみは颯太の胸の中に、すっぽりと抱えこまれるようになってしまっている。

 出会ったのは、ついこの間のことのように思えるのに、いつの間にか、確かに時間は過ぎていて、それはまた、そのころに下された、まりやの余命半年という時計の針を、確実に進めていたのだった。

 颯太のすすり泣く声が、かすみの耳に忍び込む。

「どうしたらいいんだろ……会わせてやりたいけどさ……、絶対会いたいに決まってるけどさ、見られたくないって気持ちも、わかるからさぁ……」

 颯太の言葉に、かすみもぎゅっと目を閉じた。「うん、うん」とうなずくことしかできない。

「なにか……何かさ、してやれることってないかなって、思うんだよ」

「うん……わかる、わかるよ……」

「ねぇ、かすみちゃん。無理を承知の上で、オレ、ワガママ言っちゃダメかな」

「え」

 ゆっくりと、颯太がかすみから身体を離す。手首で涙をぬぐうと、颯太は苦しそうにうつむいた。

「マリのために、何か、作ってやってくれないかな……髪、あんな、ずっと大事にキレイにしてたのに、バッサリ切って、あんな、あんなに抜けるなんて……」

「なにか、って」

「何か、ウィッグとかじゃなくてさ、もっと何か特別な……キレイで、元気が出そうな、何か被るものとか、作ってやってくれないかな……ほら、オレのせいで、ダメにしちゃったビーズとか、あれ、あるじゃんか……あれ使ってよ。ねぇ、かすみちゃん、何か、マリが笑顔で村岡さんに会えるようなさ、何か、助けてやってよ……お願いだよ」

 そう言うと、颯太は再びかすみの身体を抱きしめた。

 力いっぱい。

 ありったけの、思いを込めて。

 雨が、再び降りはじめている。

 静かな涙が、颯太の全身からあふれ出ている中で、かすみの背中と胸の中を、すうっと冷たい何かが、同時にすべり落ちていった。

 そんな、気がした。

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