8.リトル・アン


 土曜日の朝、いつもより少し早起きしたかすみは、とっておきの白いブラウスに、上からゆったりしたオレンジ色のワンピースを合わせて、颯太との待ちあわせ場所である、菰野岩駅へ向かった。

 かすみが駅についた時には、もう颯太は改札前に立っていて、黒のTシャツの上に淡い水色のシャツと、その下に大柄な白黒チェックのゆったりした七分丈のパンツを合わせていた。

 横断歩道の向かいに、かすみの姿を見つけると、颯太は一瞬目を丸くしてから、うれしそうに笑って「よっ」と片手を上げた。

「おはよう、颯太君」

 かすみが笑顔で左右を確認してから、小走りで駆けよると、颯太ははっとした顔で、かすみの後ろに険しい目を向けた。

「颯太君、どうしたの?」

「いや……あの、この間の人に送ってきてもらったとかだったら、と、思って……」

「ああ」

 かすみは、ぷっと笑って口元に指先をあてた。

「瑞樹君だって、さすがにそこまでしないよ。別に一緒に住んでるわけじゃないんだし」

「そっか……そうだよな」

 頭をかく颯太に、かすみは小首をかしげて見せた。

「お母さんだよ」

「えっ」

 再びあわてて颯太が顔を上げる。

「もう行っちゃったよ。今お仕事立て込んでるから、わたしのこと下ろして、すぐとんぼ返り」

「そっか。でも忙しいって、いいことだよね」

「うん。お母さんの作品、好きな人がいっぱいいるの、わたしも嬉しい」

 二人、改札で定期を通して、単線電車の到着を待った。

 かすみ達が住む菰野岩市は、県内最大の人口数をほこる三日市市に隣接していて、面積自体は広いのだけれど、その大半を山が占めている。また、鉄道も私鉄単線が一本走っているきりで、車がないと生活するのは少しばかりきびしい土地柄だった。

 二人が片側しかないプラットホームで待っていると、終点のやま温泉駅から返ってきた三両編成が近付いてきた。

 人影のまばらな先頭車両に乗りこむと、かすみと颯太は並んで座った。

「今日は、なんていうお店に行くんだっけ?」

 颯太が小首をかしげてした質問に、かすみは「ええとね」とスマホを取りだした。

「ここ。リトル・アンってお店なんだけど」

 かすみは指先で画面を操作して、地図を拡大し、位置関係を颯太に見せる。

「あ、近鉄とJRの駅の、ちょうど間くらい?」

 かすみは、こくりとうなずく。

「そうなの。元々は、ずっと昔からやってる生地屋さんでね、手芸関係の材料も豊富で、三日市百貨店と、栄にもお店出してるんだよ」

「えっ、すごいんじゃん」

「今日行くここは、本店ね。三日市百貨店のほうは、今はかぎまるさんっていう、リトル・アンの店長さんの娘さんが運営してて、お母さんの作品をおいてもらってるのは、そっちのほうなの」

「じゃあ、かすみちゃんの作品を置いてもらうのも」

「そう。三日市百貨店のほう。でも、わたしはちっちゃい時から小安こやすのおばちゃんに遊んでもらってたから、やっぱりお買い物に行くときは、本店に行っちゃうなぁ」

「小安の、おばちゃん?」

「あ、リトル・アンの本店の店長さんだよ。鍵丸さんのお母さん」

「リトル・アンって……ああ、そういうこと?」

「そう」

 かすみがにっこり笑うと、颯太も笑った。

「ウチの三年生に、鍵丸さんの娘さんがいるんだよ。名前聞いたことない?」

「あっ、あるある。ていうか、あー、あの人か」

「やっぱり知ってるよね。鍵丸さん美人で有名だから」

「――あの、ここだけの話」

「うん?」

 かすみの耳元に、そっと颯太は顔を近付けて、手を添えた。一瞬かすみは、近付いてきた颯太にどきりとする。

「例の、ボール投げた鈴木先輩が、その鍵丸さんのこと好きなんだよ」

「えー、そうなんだ」

「オレが言ったの、内緒な」

「うん、わかった」

 かすみが、くすくすと口元に手をあてて笑うのに、颯太も笑った。

 卯の山線の始発駅である三日市駅で降りると、かすみと颯太は並んで、メインの大通りを歩いた。菰野岩では見られない、高いビルとビルの間を行けば、慣れない車幅の片側三車線をゆく、すごい交通量に、毎回驚いてしまう。

 そして、その道の間に渡る横断歩道もとても長くて、本当に信号の間に渡り切れるものか不安になり、二人ついつい小走りになってしまって、渡り切ってから互いに顔を見合わせて、笑った。

 リトル・アン本店には、間もなく到着した。

 お店に入るなり、かすみの目の色が変わる。まるで獲物を狩る猛禽類のような顔つきをしていて、思わず颯太は、自分の顔がにやけるのを押さえられなかった。

「どうしたの?」

 それに気付いたかすみが、ふり返ると、颯太はにこにこ顔の口元に手をやりながら「いや」と笑った。

「ビーズのことになると、かすみちゃん、ほんと戦闘民族だなって」

「やだ! そんな顔してる⁉」

 かすみが思わず両手で頬を押さえると、颯太は嬉しそうに笑った。

「うん。かっこいいと思う。ふだんの感じと違うのも、ギャップがあっていいよ」

「やだ、ちょっと、あんまり顔みないで恥ずかしくなってきた……」

「真剣にやってるからだろ? 堂々としてたらいいよ」

「でも、颯太君、それ見て笑ってるじゃん」

 かすみが頬をふくらませると、颯太は、やっぱり嬉しそうに顔をくしゃくしゃにした。

「そういうとこが見られたの、ラッキーだったなって思ったんだよ」

 意味がわからなくて、かすみが小首をかしげると、颯太は少しだけ真面目な顔をした。

「はじまりは、オレらがボールを家庭科室に投げこんじゃったせいだから、単純にラッキーとも言えないし、申しわけないのは変わらないんだけど、でもオレ、かすみちゃんと知りあえて、ちょっと、アレに感謝してたりもするんだよね。ほんと、申しわけないんだけどさ」

 その言葉に、かすみも表情を変えて、顔から手を離した。

 そして、ふわっと笑った。

「うん。ほんと、最初は最悪だって思ってたけど、今、こうして颯太君といるの楽しいから、わたしもちょっと複雑」

「だよね」

「うん。だから、アレが良かったことになるように、いっぱい楽しいことしようね」

「うん。ありがとう」

 颯太は、少しだけ泣きそうな顔をして、やっぱりくしゃっと笑ったのだった。

 かすみのビーズの物色は、軽く一時間ほどがかかった。

 疲れ果てた颯太が、店の片隅のテーブルで、小安のおばちゃんが出してくれた麦茶を飲んでいると、店の奥からかすみが近付いてきた。

「颯太君、時間かかっちゃってごめんね。お会計してくる」

「ああ、うん。おつかれさま。全部ビーズ見つかった?」

 颯太が聞くと、かすみは少しだけ困った顔をして「うん」と笑ってからレジへ向かった。

「おばちゃん、お会計お願いします」

 颯太に背を向けて、奥へ声をかけるかすみに、「はいはい」とやわらかい声が応えて、小安のおばちゃんが出てきた。

「かすみちゃん、さっきいとから電話があってねぇ」

「え、鍵丸さんから?」

「このあと時間あったら、百貨店のほう、ちょっと寄ってって。作品ができたら展示する場所、ちょっと相談したいらしいのよ」

「えっ、まだ何にもできてないのに? ていうか、何で今日ここにいるの知って……」

 そこまで言って、かすみは「あっ」と気付いた。

「瑞樹君だ……! お母さんに言ったんだやっぱり」

 両頬を手で押さえて「やだー」というかすみに、颯太も少しばかり顔を引きつらせる。

 二人きりのお出かけのつもりが、完全に周りを包囲されている。すごくはっきりとした、何かしらの下心が颯太にあったわけではないけれど、それでもこれはそうとう緊張するし、とてつもなく恥ずかしい。

 二人とも、顔を赤くしてお店を出たあと、お互いに顔を見合わせて、相手の顔が赤いことに気付き、苦笑しながら「いこっか」と百貨店へ向かった。

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