2.家庭科室
お父さんが、東京の本社へ転勤することが決まったのは、かすみが中学に上がってすぐのことだった。
その一年後、お兄ちゃんも東京の大学へ進学することが決まったので、今、かすみ達
最初、お父さんは、お母さんとかすみの二人を菰野岩へ置いていくことを、とても嫌がった。女二人だけだなんて危ない、心配だと言っていたけれど、多分、お父さんの本音は、お母さんと離れるのが嫌だったんだと、かすみは思っている。
それでも、こうして二つの家に別れたのは、主にお母さんの仕事が理由だった。
お母さんは、マクラメ編みという技法を使った、アクセサリーを作る仕事をしている。いわゆるハンドメイド作家だ。ブラジルで作られている、とても細い糸を輸入して、それでルースと呼ばれる平たい形にみがかれた、天然石を包んだり、その細い糸を何本も組みあわせて、太い紐を自分の手で組んで作る。
個人で販売をするためのお店はもっていなくて、店舗をもっているお店にあずけて委託販売という形をとったり、それから、お母さんが自分で運営しているwebショップや、ハンドメイドの委託通販サイトで取り扱ってもらったりしている。
お母さんと同じように、マクラメのアクセサリーを作っている人はたくさんいる。けれど、それでもやっぱり、お母さんが作るものは、他の人達とは、どこかデザインの組み方が違っていた。そういうところが、少しずつ口コミみたいにして広がっていって、今は制作と、それから自宅で教室を開いて、生徒さんをとったりすることで、お仕事として成立させている。
この教室があるために引っ越しはできない、というのが、お母さんが出した結論だった。
そして、そんなお母さんの手仕事や働き方を、かすみは、ずっとそばで見てきた。
自然と、糸やビーズに親しむようになり、幼稚園のころから手芸を続けてきた。そして、小学校のときに自分用のお裁縫道具を手に入れてからは、もう夢中になって、刺繍をするようになった。
そんなかすみの手仕事を、お母さんのお得意様である
菰野岩駅の改札を出ると、もう辺りは高校の生徒達でいっぱいだった。
「おはよー」
「おはよう。宿題やってきた?」
「あーヤバ、忘れた」
「ちょっと飲み物買っていこうぜ」
「おごれよ」
「いやだよ」
さざめく会話の間を、かすみは少しだけ、うつむきかげんに、でも暗く見えたりしないように十分に気を付けて、ほんの少し、本当に少しだけ微笑んで歩きながら、学校へ向かうメイン通りを進んだ。
初夏の爽やかな木々の香りが、空気のなかに漂っている。
暖かいを通り越して、そろそろ汗ばんでくるような、天気のいい五月の末日だ。
周りの生徒達に、追い抜かされたり、反対に追い抜かしたりしながら、かすみはなるべく目立たないように気を付ける。
と、その時、かすみのすぐ横を、男子生徒達数人が、大きな声で笑いながら走り抜けていった。その巻き起こした風が、かすみのクセの強いセミロングの髪を巻き込んで、わっと前へ流していった瞬間に、思わずびくっとして立ち止まった。
胸を手で押さえて、どきどきと心臓が鐘のように鳴っているのをなだめる。
目を閉じて、二回、ゆっくり深呼吸した。
大丈夫、ぶつかってもない。何かされたりしたわけじゃない。大丈夫。
怖くない。
はあと一度大きく息を吐いてから、かすみはまたゆっくりと歩きだした。
見上げた先には、視界の端から端まで続くS山脈がある。かすみの小さな手では計り切れないスケールの、その大きさに励まされ、左手に折れると、まもなくフェンス越しに校庭と、その奥に校舎が見えてきた。
午前中の授業を終えると、かすみは急いでお弁当袋と、それから部活用の材料を入れているカバンをもって、家庭科室へ向かった。
家庭科室は、一階東棟の半ばにある。
「おつかれさまです」
かすみが、わざとではないけれども、遠慮がちな小さな声で、挨拶をしながらドアを開けつつ、なかの様子をうかがうと、先に来ていた先輩達が「おお」と笑顔でふり返った。
「かすみちゃん、おつかれさま」
「おつかれさまです、
つるりとキレイなおかっぱ頭に、丸っこい眼鏡をかけた部長の東条が、にこにこ笑いながらかすみに向けて手をふっている。かすみはほっとして、ふうと一息つくと、家庭科室のなかに入った。
家庭科室にいたのは、東条と、それから
三人が食事を広げているテーブルの、一つ隣のテーブルの椅子を引くと、東条が「おや」と片眉を上げた。
「どしたの? こっちで食べたらいいじゃん」
「あの、ちょっと作業したいことがありまして」
「あ、そうなのね。急いで食べちゃう感じ?」
「はい」
かすみがにっこり笑うと、村岡が無表情のまま「うむ。いとかわゆし」とうなずいた。村岡は全体的に華奢で背が高く、すっとした切れ長の目の持ち主で、いつも表情があまり変わらず、たまにぼそりとこうやって不思議な言い回しの言葉をつぶやく。
東条は、152センチのかすみより少し背が高いくらいのものだが、日比野は東条と同じくらいの身長で、全体的にふっくらと丸みをおびた体型と、いつもにこにこの笑顔がトレードマークだ。やはりにこにこと、いちごみるくを飲みながら、「がんばってるねぇ、えらいねぇ」と、のんびりかすみのことをほめた。
クラスでのかすみは、今もうまく溶け込めずにいるけれど、こうして部活に顔を出せば、安心しておしゃべりができる先輩達に会える。
家庭科部。ここは、高校生活を送るうえでの、かすみの大きな心のよりどころとなっていた。
お弁当を広げながら、かすみは、ふと視線を窓へ向けた。
窓の外には第二グラウンドと、それから体育館を見ることができる。今日も早々に食事を終えた生徒達が、第二グラウンドで、それぞれスポーツを楽しんでいた。
開け放たれた窓から、心地よい風が吹き込んでくる。
手早く食事を終えて片付けると、かすみは部活用のカバンからプラスチックのケースを取りだした。
ケースには、細かな仕切りの壁が作られている。そして、それぞれのスペースには、種類の違う色取り取りのビーズが収納されていた。それから、かすみは布でできている手帳のようなものを取りだして、それを閉じているボタンを外し、開いた。その中にもまた、色々な種類の布が縫い留められている。かすみオリジナルの布見本だ。
「なぁに? 次の刺繍の色合わせ?」
「はい」
かすみは、うれしさを隠しきれない顔を東条にむけた。
「じつは、お母さんの作品をおいてくださっているお店で、わたしの刺繍もおいてもらえることになって」
「えっ、すごいじゃない!」
東条が目を丸くした後ろで、村岡が「天才が見出された」と、ぼそりとつぶやき野菜ジュースを吸い上げる。
「かすみちゃんの刺繍、キレイで丁寧だし、図案にもオリジナリティがあるから、人気でちゃうねぇ」
にこにこと小さく拍手をする日比野に、かすみは耳の後ろをかきつつ「えへへ、ありがとうございます」とうつむいた。
その時だった。
「うわわわわーっ!」
窓の外から、男子の大きな声が聞こえてきた。
そして、全員が「おや?」と思う間も、目を向けるひまもないうちに、窓の外から飛び込んできた硬式野球のボールは、かすみが広げていたビーズケースに、すさまじい音をたてて直撃したのだった。
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