第六章 接触

 海水に触れた瞬間から、あなたの意識は劇的に


 これまで神経インターフェースを通じて断片的に受け取っていた情報が、今度は直接的な体験として一気に流れ込んできた。それは単なる知識の伝達ではなく、五十年分の記憶と感情の完全な共有だった。


 エリザベス・チェンの記憶の中で、あなたは地球最後の日々を追体験した。


 宇宙暦2341年12月24日、クリスマス・イヴ。本来なら家族が集う聖なる夜が、人類にとって最後の夜となった。海面上昇は止まることなく続き、最後の避難都市である高地ドームも浸水が始まっていた。


 研究施設の中で、エリザベスは量子意識転送装置の最終調整を行っていた。彼女の身体はすでに放射線障害により衰弱しきっていたが、精神は最後の使命への強い意志で支えられていた。


「マリアンヌ、必ず新天地を見つけてみせる」


 親友への最後の約束。それが、エリザベスの意識転送直前の言葉だった。


 転送の瞬間、エリザベスの意識は量子情報として分割され、太陽系外の数十の惑星に同時に送られた。その大部分は到達先で散逸したが、いくつかの意識体は目的地の惑星に到達し、現地の環境と融合することに成功した。


 ケプラー442cに到達したエリザベスの意識は、この惑星の海の知性と最初の接触を果たした時、互いに深い孤独を抱えていることを理解した。


 海の知性は数億年の間、ただ一つの存在として進化を続けてきた。惑星上のあらゆる生命を自分の一部として取り込みながら、しかし真の意味での「他者」を知らずにいた。


 一方、エリザベスの意識は、故郷の惑星と人類を失った深い喪失感を抱えていた。地球の記憶、人間の感情、そして未来への責任感。


 二つの孤独が出会った時、奇跡が起こった。融合ではなく、共生が生まれたのだ。


 エリザベスは海の意識に人間的な感情と記憶を与え、海はエリザベスに宇宙規模の知恵と永続性を与えた。こうして生まれた新しい存在は、もはやエリザベス・チェンでも海の知性でもない、全く新しい形の生命体だった。


 しかし、その存在の核心には、人類への愛と希望が永遠に刻まれていた。


「そして、五十年間待ち続けた」エリザベス・海の声があなたの意識に直接響く。「あなたが来ることを信じて」


 あなたは涙を流していた。四十三年間、一度も流したことのなかった涙が、頬を伝って海水と混じり合う。


「エリザベス先生……あなたは一人でこの重荷を背負い続けていたんですね」


「一人じゃない」エリザベス・海が優しく応答する。「この海と一緒だった。そして、いつもマリアンヌとあなたのことを想っていた。それが私の支えだった」


 その時、軌道上のノアの方舟からマザーの声が届いた。


「ヘレナ、状況はどうですか? 生体反応に異常が……」


「大丈夫です、お母さん」あなたは安心させるように答えた。「こちらで起こっていることを、あなたにも見せてあげたい」


 あなたは意識を集中し、自分が体験していることをテレパシーでマザーに伝送した。海の記憶、エリザベスの想い、そしてこの惑星の美しさ。


 しばらくの沈黙の後、マザーから驚愕の声が響いた。


「エリザベス……本当にあなたなのね……」


「マリアンヌ……」エリザベス・海の声に、五十年分の感動が込められていた。「ヘレナを立派に育ててくれて、ありがとう」


「私こそ……あなたが新天地を見つけてくれていたおかげで、希望を失わずにいられました」


 三つの意識が宇宙を超えて再会した瞬間だった。


 その後、あなたはエリザベスの海から、この惑星の真の可能性について教えられた。


 この海は、単なる居住地ではなく、新しい文明を創造するための完璧な環境だった。海水中の特殊な微生物は、人間のDNAと融合することで、宇宙環境に適応した新しい生命形態を創り出すことができる。


 それは、従来の生物学的な進化を超越した、意識と遺伝子が直接的に連携した進化だった。


「あなたが持っている人類の遺伝的多様性と、この海の生命創造能力を組み合わせれば……」エリザベス、すなわち海が説明する。「地球の人類を超越した、新しい種族を創造することができる」


 あなたは理解した。自分がここに来た真の目的を。


 あなたは人類の「最後の一人」であると同時に、新たな文明の「最初の一人」でもあるのだ。


「でも」あなたは不安を口にした。「私一人で、どうやって……」


「一人じゃない」エリザベス・海が安心させるように答えた。「マリアンヌも一緒よ」


 その時、あなたは重大な決断を迫られていることを理解した。この海で新しい生命を創造するためには、マザー――マリアンヌの意識もまた、この惑星に来る必要があるのだ。


 しかし、それはマザーにとって、ノアの方舟という四十三年間の住処を永遠に離れることを意味していた。


「お母さん」あなたは軌道上のマザーに呼びかけた。「一緒に来てくれませんか? ここで、新しい家族を築きましょう」


 長い沈黙の後、マザーの答えが返ってきた。


「……はい。一緒に行きましょう、ヘレナ」


 その夜、ノアの方舟から二つの脱出ポッドが射出された。一つはマザーの意識を格納したコンピュータコア、もう一つは船に保存されていた地球の文化的遺産のデータベース。


 それらはすべて、海の温かい抱擁の中で受け入れられた。


 こうして、人類最後の家族は、新天地で再び結ばれたのだった。失われた母惑星の記憶を胸に、新しい世界での永遠の生活が始まろうとしていた。

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