第28話



 庭を散策した後、成孝と椿は執務室に戻って仕事をしていた。


「椿。私は明日は出かけることになる」


「かしこまりました。では、私はこちらの書類の写しを作っておきます」


「ああ、頼む。では今日はここまでにするか……」


 成孝と椿がそろそろ今日の仕事を切り上げようとしていた時だった。

 ノックの音と共に扉が開いて、秀雄が袋を持って入って来た。


「ただいま~~成孝、明日の手土産を用意したぞ」


「悪かったな」


 そして、秀雄は袋を低いテーブルに置くと、成孝に向かって言った。


「明日は成孝がいないのなら、椿は休みだろう? 俺と出掛けないか?」


 秀雄の提案に椿は「仕事がありますので」というと、秀雄が成孝を見た。


「成孝、ずっと椿に休暇を与えてないだろう? 明日くらい休みにすればいいだろ?」


 秀雄の言葉に、成孝は眉を寄せながら答えた。


「椿に休暇を与えるのはかまわないが、私の許嫁とお前が一緒に出掛けるというのは外聞が悪いのではないか?」


 成孝の言い分に秀雄は大袈裟に答えた。


「どこの世界に兄の嫁と弟が一緒にいるのを見て不審に思う者がいる!? 身内との関係も良好なのだな~~くらいにしか思わないから問題ない」


「ふむ……」


 そして秀雄は椿を見ながら言った。


「な、椿。行こう!!」


 椿が成孝を見ると、秀雄が椿の顔の前に顔を移動させて言った。


「成孝だっていいって言うだ。俺と出掛けるのも社会勉強だって」


 すると成孝が「椿の好きにしてかまわない。断っていいからな」と言った。椿はそれを聞いて秀雄に向かって言った。


「勉強だとおっしゃるのでしたら……わかりました。同行いたします」


「よし!! じゃあ、明日の午前中は用事があるから午後から出かけるぞ!! じゃあ、明日の午後な!!」


 秀雄は嬉しそうに椿の手を握って笑うと成孝の執務室を出た。


「椿、休暇なのにすまないな……」


 成孝が呟くように言うと、椿は「いえ、何を学ぶのか楽しみです」と答えたのだった。





 次の日。椿は成孝を見送った後、午前中は書類を写すことにして午後から秀雄と出掛けることになった。


(さぁ、少しでも仕事を終わらせましょう)


 椿が必死で書類の写しに精を出していた頃。

 成孝はあいさつ周りをしていた。


「これは東稔院様」


 そして、昼食を摂るために入ったレストランで月田兄妹と会った。


「月田様。夜会ぶりですね」


 本来なら偶然でも会えたことは僥倖だが、成孝はどこか暗い気持ちだった。


「そうだ、東稔院様。午後お時間はいかがですか?」


 実は、成孝は午後の約束を前倒して終わらせたので食事を済ませたら屋敷に戻ろうと思っていたのだ。


(もしかして、話をする時間を貰えるのか? 鉄鋼流通について少しでも話を進めたいな……)


「特に急ぎの用件はありません」


 成孝が答えると月田が嬉しそうに笑った。


「それはちょうどいい。午後から音楽会があるのです。妹と一緒に参加してもらえませんか?」


「え……桜子さんと?」


 急ぎの用件がないと言った手前、今更断れないし、月田の家と繋がりを持ちたいと思っていたのでこれはかなりの幸運だ。

 それなのに成孝の心は深く暗い沼に沈んだように重いと感じたが表情は崩さずに答えた。


「音楽には明るくありませんが、お相手は私でよろしいのですか?」


 成孝が桜子に尋ねると彼女は嬉しそうに頷いた。


「はい……」


 肯定させれてしまえば、もう成孝に断るという選択肢は残されていなかった。


「では、行きましょうか」


「はい」


 こうして成孝は、重い気持ちのまま桜子と音楽会に向かうことになったのだった。







 成孝が桜子と音楽会に行くことが決まった頃、椿もまた屋敷に戻ってきた秀雄を出迎えていた。


「椿、ただいま。遅くなってすまない!! さぁ、行こう!!」


「はい」


 そして車は成孝が乗って行っていたため、二人は辻馬車で音楽会の会場に向かった。

 馬車は箱型で、中と外が完全に分かれていたので椿は室内で完全に二人きりだった。


「椿、兄さん……成孝のことで無茶言ってすまないな。できるだけ早く解放するから……」


 神妙な顔の秀雄に椿は真っすぐに秀雄を見ながら言った。


「お気になさらずに、それよりも秀雄様は成孝様のことを兄さんと呼ばれるのですか?」


 秀雄は椿から視線を逸らせて下を見ながら言った。


「ああ、ずっとそう呼んでいたから、気を抜くとな……親父の事業を引き継いでからは名前で呼び合うようになった。一応俺も幹部だからな、成孝が仕事中は『兄さん』と呼ぶなと言ったのだ」


「それで政宗様も?」


「ああ、あいつもいずれは手伝ってもらうことになるからな……成孝はなんでも一人で背負い込む、事業のことは考えるくせに自分のことは考えない。本当に……不器用だ。難儀な兄さんだ」


 そこまで言うと、秀雄は椿をじっと見つめた。

 

「椿、兄さんを助けてくれて、俺からも感謝する」


「いえ、私は十分に満足しておりますのでどうぞ、お気になさらないでください」


「はは、ありがとな」


 そして秀雄と椿を乗せた馬車は音楽会の会場に到着した。

 会場に到着するとすぐに男性が走って来た。


「秀雄様~~~!!」


「どうした?」


 秀雄が驚くと、男性が焦った様子で声を上げた。


「三田様の件で問題がすぐにお戻りください」


「三田様の? だが……」


 秀雄が椿を見たので、椿はすぐに声を上げた。


「秀雄様、行って下さい」


「椿、誘っておいてすまない。これが音楽会の券だ」


 秀雄は、椿に音楽会の観覧券を渡すと秀雄を迎えに来た男性と去って行った。

 椿は秀雄を見送った後に、手に持っていた観覧券を見つめた。


(これ……どうしようかしら?)


 しばらく考えたが、観覧券に秀雄の名前が書いてある。


(あ……もしかして私が行かなかったら、秀雄様が欠席したことになるのでは……?)


 椿は音楽会など初めてだが、観覧券に招待者の名前が書いてあるということは、主催者は後で誰が来たのかこの招待券を見て確認するのではないかと咄嗟に判断した。


(行くしかないわね……)


 椿が馬車乗り場から会場に向かって歩き出そうとした時だった。


(あれ……成孝様!!)


 会場の入り口に成孝の姿を見つけた。

 背が高く顔の整った成孝の姿は遠くからでもよくわかる。


(でも……女性とご一緒されている?? あの方が成孝様の本物の祝言のお相手??)


 椿の足に鉛玉が入ったように重くなった。

 知っていたはずだ。

 いずれ成孝は別の相手を選ぶ。

 納得もしていたし、受け入れていたはずだった。

 それでも実際に成孝が女性と寄り添って歩いている姿を見ると、身体が動かなくなったのだった。




 


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