大正剣客令嬢の許嫁契約
藤芽りあ
第1話
明治四十一年、夏。
辺りを暗闇が支配し、立っているだけで汗が張り付く。
男は息を切らせ、こけそうになりながらも懸命に逃げてようやく林の中まで来た。
「こ、ここまでくりゃあ……大丈夫だろ……」
ようやく男が足を止め、ふと視線を上げると幼い少女が目の前に立っていた。
少女はなんの感情もない目を向けた。
「あなたに恨みはありませんが……」
「え?」
その瞬間、辺りに鮮血が飛び散った。
男は声もなくその場に倒れて動かなくなった。
幼い少女は、刀に着いた返り血を懐から出した布で拭き取り、静かにその場を離れて行った。
――椿。
まるで椿の花のように鮮血を散らし、一瞬で相手が地に落ちる。まさにその名の通りの剣技を持った少女だった。
◇
大正二年、三月。
十六になった椿は、帝都行きの汽車の窓から見送ってくれる家族に手を振った。
「いってきます!!」
「達者でな!!」
室町時代から続く由緒ある元武士の家系に生まれた椿は、これまで刀で生きてきた。
ところが明治の世になり、廃刀令により刀を捨てた。
そんな椿は新たな働き口を求めて帝都に向かうことになった。元々物覚えのいい椿は、帝都の言葉を習得し、電話交換手になる伝手を見つけた。
椿は始めて乗る汽車の窓から外を眺めていた。
(汽車というのは早いものなのね……)
走るよりもずっと早くて椿は驚き、次々に変わる景色に思考を巡らせた。
(汽車って予想以上に早いわ。無理すれば飛び移れないこともないかしら? 受け身を取れば飛び出ることは出来そうね。もし、汽車の中で襲われたら、どう対処しようかしら……)
椿のクセで"もしも賊に襲われたらどう対処するか"を考えていたら、反対側の席から男の声が聞こえた。
「おい、いつまで開けているんだ。早くその窓を閉めてくれ」
「え?」
椿が声の方を見ると、椿より少し上だと思われる洋装の男性が座っていた。男性は、読みかけ本から視線を上げて注意してきた。
(窓を閉める??)
「君! 聞こえているのか!?」
少し考え事をしていると、男性が少し不機嫌そうに声を上げた。
「この窓を閉めるのですね?」
「そうだが……あんた……帝都の人間か?」
「いいえ、少々お待ちくださいませ……」
椿は窓の閉め方がわからず試行錯誤しながら答えた。
「へぇ~~違うのかい……」
ちなみにこの窓は椿が、汽車に乗った時には開いていた。椿が開けたわけではない。
結局わからずに周りを見てみたが、窓を閉めている人はおらず、どうすれば閉まるのかがわからなった。
「窓の閉め方を教えて貰えませんか?」
椿が頼むと男性は立ち上がり、「こうする」と閉め方を教えてくれた。椿は教えられた通りに窓を閉めた。すると男性が小声で呟いた。
「ふっ、『閉めてくれ』ではなく閉め方を聞くのか……」
椿は男性にお礼を言った。
「ありがとうございます」
すると男性が片眉を上げながら尋ねた。
「もしかして、汽車に乗るのは初めてなのか?」
「はい」
「そうか……それは声を荒げて悪かったな」
椿は男性の顔をじっと見つめた。
「なぜ窓を閉めたのですか? 寒いのですか?」
「ああ、それもあるが……すぐにわかる」
椿はそう言われて窓の外を見た。そしてすぐに汽車はトンネルに入った。急に車内が薄暗くなり椿は回りを見渡した。
(これが噂のトンネル……まるで夜になったみたいだわ……)
暗くなった回りを見ていると、他の車両でバタバタと窓を閉める音がしたり、数人が咳をしながら、こちらの車両に駆け込んできた。
そして先ほど駆け込んできた乗客が、今まで男性が座っていた席に座った。
(もしかして、汽車の黒煙がトンネル内だと車内に流れ込んで来るのか……こんな風に他の方に迷惑をかけてしまうところだったのね……危なかった)
「教えてくれてありがとうございます」
「すぐに状況を理解したってわけか……」
男性は自分の座っていた席から、荷物を持って椿の前の席に座り直すと楽しそうに笑った。
「君。名前は?」
「……椿です」
「なぜ帝都に?」
「電話交換手になるためです」
素直に答えると男性は思案顔で言った。
「へぇ……もう働き口が決まっていたのか……電話交換手か……」
すると、男性が目を細めた。
「椿。俺のところで働かないか? 俺は椿が気に入った」
椿は驚きながら返事をした。
「あなたとは先程会ったばかりのはずです。気に入られる理由がわかりません。それに私はもう電話交換手になることが決まっていますので……」
椿の答えを聞くと男性が少し考えた後、にこやかに笑った。
「そうか……わかった。じゃあ、そっちの方に交渉してみるか」
「え?」
椿が驚いていると、周りが騒がしくなった。
「そろそろ着くな」
椿が外に目を向けるといつの間にか駅に近づいていた。男性は手早く荷物をまとめると、椿の方を見た。
「またな」
「またな……?」
男性は足早に汽車を降りていった。
(何かしら? 今の?)
椿は首をかしげ、再び窓の外の景色を見たのだった。
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