第18話 決戦前夜

 戦いが始まる前夜。

 西の空に沈みかけた太陽が雲の隙間から顔を覗かせ、城壁や荒れ果てた街並みを淡いオレンジ色に染めていた。


 明日は――この国にとっても、俺たちにとっても、大きな節目となる日だ。


 城の屋上に立ち、俺は風を受けながら外の景色を見下ろしていた。


 初めて四天王という存在に挑む。

 聖剣の力を使えるようになって、魔族にとっては弱点となる存在になったはずだ。


 だが――本当に俺は倒せるのだろうか。


(……っ)


 震える手を押さえつける。

 あれだけ啖呵を切ったのに、前日を迎えた今になって手が震えてくるなんて――自分でも情けなく思えてくる。


「……情けねぇな」


 思わず漏れた独り言に、背後から声が返ってきた。


「そんなことありませんよ。誰だって戦いに向かう時は緊張するものです」


 振り返ると、レインが立っていた。

 彼女は俺の隣に歩み寄り、同じように石造りの胸壁へ腕を置き、沈む陽に照らされた街を見下ろす。


「なんで、レインがここに?」


「ヘリオ団長が教えてくれました」


 レインはにこりと笑う。


「『あいつ死にそうな顔してたから、聖女様が元気づけてやれ』って」


「あの人は……」


 俺は頭をがしがしとかきながら、心の内を吐き出した。


「明日、ドラグニスと戦うってのにさ、手の震えが止まらないんだ。作戦会議の時に怒鳴ったくせに、明日の戦いを思うと、本当に良かったのか……倒せるのか……みんなを守れるのかって、不安に……いや、怖くなる」


 胸壁に腕を乗せ、顔をうずめる。


「みんなそう思っていますよ。私だって明日のことが不安で落ち着かなくて……だから、ジアン様に会いたくて探していたんです。会えたら、きっと少しは……安心できるかなって」


「えっ?」


 顔を上げると、レインが穏やかに微笑んだ。


「……でも、私だけじゃありません。みんな怖くても、それを見せないようにしているんです。だって、私たちがそんな姿を見せたら、兵士たちが不安に思ってしまうでしょう?」


「……ヘリオ団長もなのか?」


 俺がようやく勝てるようになった、あのヘリオ団長。

 鋼みたいに揺るがない眼差しと、圧倒的な剣さばき。

 そんな人間が、俺と同じように手を震わせるなんて――どうしても想像できなかった。


「きっと、あなたにはその姿を見せていないだけでしょうね。だって、その姿を見たら、あなたが不安になってしまうでしょう?」


「……そっか」


 レインの言葉に、胸の奥のもやが少し晴れた気がした。

 自分の前に立つ者が不安を見せるということが、どういう意味を持つのか――ようやく理解できた。


 そういう思いをすべて胸に押し込んだうえで前を向くヘリオ団長が、改めてすごい人なんだと実感する。


「なら、俺も団長に負けないように、しっかり前を向く姿を見せないとな」


 そう言って、俺はレインに向けて、決意を込めた笑みを返した。


 風が少し強くなり、胸壁の向こうで暮れなずむ街がゆっくりと影に沈んでいく。


 沈みゆく陽が街並みを染め、二人の影を長く引き伸ばした、その時――

 背後から、場違いなほど軽やかな靴音が近づいてくる。


「……おやおや、こんなところで仲睦まじく黄昏ているなんて、羨ましい限りだ」


 軽薄な声音に振り向けば、金色の髪をきらびやかに整え、礼装を着こなした青年が立っていた。

 初めて会った時と同じ、芝居がかった華やかさをまとって――第二皇子、アルディオ・ヴェルネスが現れた。


 ゆったりとした歩みで近づくその顔には、場の空気を読まぬ笑みが貼りついている。

 風に揺れる髪の奥から、金色の瞳が値踏みするようにこちらを見据えてきた。


「勇者君、聖女様。明日は君たちの力を大いに期待しているよ」


 相変わらずの笑顔だ。

 俺は無言で視線を返す。隣のレインは眉をわずかに寄せたが、口を挟むことはしなかった。


 アルディオは俺たちの隣に並び、胸壁へもたれかかる。


「この戦いに勝利すれば、この国は大きく変わる。無駄なものは排除され、華やかに僕らの時代が花開くんだ」


 大げさな手ぶりを交えて語る。


 空の色が変わっていくように、今のライフィオから自分へと継承が移る未来を当然のように語る。

 その口ぶりに、俺はどうしようもない違和感を覚えた。


「僕を支えてくれている貴族たちは、皆、強大な力を持っている。戦いが終われば、その力に誰もが感謝するだろう。――その時には、君たちも僕らの側につかないかい? あんな堅苦しく、民の顔色を窺い、わざわざ泥をかぶるような、美しくない生き方をする兄上に、この国を統べる資格はないよ」


 胸元の金飾りを指で弄びながら、さらに言葉を重ねる。


「金も、名誉も、立場も……欲しいものは何だって用意するよ。戦場に立つ平民上がりの君には、将来手に入らないものばかりだろう?」


 アルディオは俺たちに向けて手を差し出した。


 声音は柔らかく響くが、その奥には平民出身を見下す色が隠しきれない。

 金をちらつかせれば平民など容易く靡く――そう考えているのだろう。

 胸の奥に、じわりと苛立ちが広がった。


「……悪いな」


 視線を外さぬまま、一拍置いて言葉を落とす。

 笑みを崩さぬまま、金色の瞳がわずかに鋭さを帯び、こちらを射抜いた。


「お前の提案じゃ、俺の心は一つも動かないよ。俺は――国のために、民のために剣を振るうライフィオ皇子のために戦う」


 その瞬間、胸壁にもたれていた彼の体がわずかに起きる。

 貼りついた笑みはそのままだが、口元の端がほんの一瞬だけ強張った。


「君はバカなのかい?」


「バカかもしれないな。だけど、人を駒としてしか見ない奴の下で戦いたいなんて、これっぽっちも思わない。この国の人々は――ライフィオ皇子がいるから、まだ諦めずに戦えてるんだ。だから俺は、あの人が倒れないように隣で戦い、ドラグニスを討つ」


 言い切った瞬間、胸の奥の熱が少しだけ引いた。


 アルディオは短く息を吐き、再び笑みを形作る。

 だが、その瞳の奥に宿る光は先ほどまでとは違っていた。


「君も愚かだなぁ。死ぬかもしれないのに、この後のことを考えれば、僕の方が正しいと思わないのかい?」


「たとえ明日死ぬとしても、後悔しないよう全力で足掻く。……あんたには、この国の“明日”のために命を懸ける覚悟がない。ただ、勝手に明日が来ると信じて、何もせずにいる。そんな奴のもとに、誰が集まるって言うんだ。……だからあんたの周りには、金と権力に群がる人間しか残らないんだろ?」


 言葉を受けて、アルディオの顔から表情がすっと消える。


「……そうか。残念だな」


 声音は柔らかいままだが、その響きには鋭い冷たさが混じっていた。

 それ以上、彼は何も言わない。


 俺はアルディオから視線を外し、背を向ける。

 レインも小走りで追いつき、黙ってその横に並んだ。


「ジアン様……あんなことを言って、大丈夫なのですか? 的を射た話ではありますけど」


 レインが不安そうに聞いてくる。


「わかってる。だが、この国の人を見ようともしない皇子の言葉には腹が立った。ライフィオがこの国のために命を懸けているってのに、後ろでふんぞり返ってる連中の話なんて聞かされたら堪えられなかった。……ゴメン」


「それは……分かりますけど……」


 レインが言い淀む。


「大丈夫。ライフィオ皇子は俺が絶対に守る。そして――」


 そこで一拍置き、夜風を吸い込む。


「絶対にドラグニスを倒す。この国の未来を、俺たちの手で作るんだ」


 夜風が頬を撫で、遠くの城下に灯る明かりが、まるでその誓いを見守っているようだった。





 ――足音が遠ざかっていく。

 胸壁にもたれながら、アルディオはその背中を黙って見送った。


 沈みゆく陽が、目の前に長い影を落とす。


「僕の手を取ればよかったものを。その思いが戦場で通じるかどうか……すぐに分かるさ」


 低く呟き、視線を落とす。


 懐から一通の封書を取り出す。

 乳白色の上質な紙に、精緻な意匠の封蝋が押されている。

 指先に伝わる絹のような滑らかさが、これが相応の地位を持つ者からのものだと物語っていた。


 彼はそれを指先で弄ぶ。


 口元に笑みを浮かべるが、そこに先ほどまでの柔らかさはない。

 背後に控えていた側近が一歩近づく。


「……例の件を進めろ。勇者殿は、どうやら悲劇がお望みのようだ」


 短く耳元で囁く。

 何を意味するのかは、本人と側近以外には分からない。


 城壁を抜ける風が、その言葉をさらっていく。


 まるで――嵐の前触れのように冷たい風だった。


 アルディオは再び視線を遠くへ向ける。

 その瞳には、明日の戦いで訪れる悲劇を予見するような、凍りつく光だけが宿っていた。

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