第48話 ゴーフルと今井の鯖
「あ、おかえり~」
その日、僕が珍しく昼シフトのバイトから帰って来ると、
僕のベッドで舞子が転がって、僕が置いてた泉麻人の「ナウのしくみ」を読んでいた。
大阪から帰ってきたんだ。
ベッドに転がって本を読んでいる、その当たり前の光景にホッとする。
送り火のあと、ユリカはさらに2日ほど僕の部屋に居座っていた。
けれど、そろそろ舞子がいつ帰ってきてもおかしくない。
そこで彼女には、自分のマンションへお引き取り願った。
ユリカがいなくなると、僕はすぐに念入りな清掃に取りかかった。
掃除機をかけ、床もベッドもカーテンもクッションも全部コロコロ。
ゴミ箱を空にし、グラスや食器の口紅の跡を洗い直し、
マーキングの痕跡が残っていないか家捜しのようにチェックして回る。
よし。
バスルームにルージュの伝言もないし、
ベッドの下に真珠のピアスも落ちてない。
……いや、誰がユーミンやねん。
というか、そもそもこの部屋は風呂なしアパートだし、ベッドは畳に直置きのマットレスなんだけど。
僕の努力の甲斐あってか、舞子は部屋の様子に特に違和感を覚えていないようだった。
話を聞くと、おばあさんは大きな病気ではなく、ただの暑気あたり。
すっかり元気になって退院したというので、胸をなで下ろした。
ふっと安心してテーブルに目をやると、そこに――
見覚えのある、焦げ茶色の丸い金属缶がちょこんと置かれていた。
「ゴーフル?舞子、どうしたんこれ?」
「ん?お土産やで、ハルくんに!」
「お土産?神戸も行ってたん?」
「なんで神戸?おばあちゃんの病院行ってたんやから、大阪やで。泉州」
「????なんで泉州でゴーフル?ていうか、その大阪弁は?」
「あ!おばあちゃんとずっと喋ってたから戻ってた!」
舞子は自分の大阪弁に気づいて、耳まで赤くなった。
「そういや、何で舞子、大阪出身やのに、普段標準語なん?」
「まあそれは…色々あってね」
あっという間に舞子のアクセントは標準語に戻っていた。
で、ゴーフルだ。
「神戸って何で?」
「え?だってゴーフル言うたら神戸のお菓子やん?やから、神戸も行ってきたんかなと思て」
「え?えー!?ゴーフルって神戸なの?」
どういうことだ?
「小さい頃からよく家にあって、駅前のサティの贈答品コーナーにいつも売ってるから、大阪のものだと思ってたんだけど!?」
「缶の横の『製造元』てとこ、見てみ?」
「ここ?えーっと…こうべ…ふうげつどう…こうべし…ちゅうおうく…え!?えー!?ホンマや!!!」
舞子の大阪弁は中々に新鮮だ。
「うそ!?ごめん!ハルくんに大阪土産買ってきたつもりだったのに!」
「ええよええよ。ゴーフル好きやし。ありがとう。一緒に食べよ」
そう言いながら僕はグラスに冷たい牛乳を入れ、メープルを一筋垂らしてスプーンでかき混ぜた。
「ゴーフルって、バームクーヘンと一緒で、なんかこう“牛乳タイムに似合うやつ”って感じやな」
舞子と一枚ずつかじる。
美味い。
「美味しいねー」
「うん。けどな、僕いっつもこれ食べたら、Tシャツの前とかズボンとかがこなっ粉(こな)になって、床もこなっ粉(こな)になって後が大変やねん。オカンにいつも怒られてたわ。」
と言った時には既に舞子が眉間にシワを寄せてコロコロを手に持って僕の前に立っていた。
窓の外で舞子の風鈴がちりんとなり、既にしぼみ始めた朝顔の向こう、遠くに入道雲が見えた。
暑い暑い京都の夏も、ほんの少しづつその勢力を弱めてきていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ハルヒト、お前音楽やってたやんな?」
鯖の身を箸でほじりながらタカトモが言った。
タカトモに呼び出されたのは、月も変わって9月最初の土曜日だった。
白浜ドライブのとき、ミナコと同じ車になるよう僕が“割り振りを不正操作”した。その見返りの約束を果たすらしい。
暦の上ではとっくに夏は終わっているはずなのに、気温は30℃を越えていて、しかも雨でムシムシしている。
僕はバイトから帰ってきた舞子を助手席に乗せ、加茂街道をずっと北へ。
御薗橋を渡り、上賀茂神社の駐車場に車を停めた。
雨のせいか、土曜の昼にしては珍しく空いている店内。
引き戸をカラカラと開けると――
「おー!よう来たな!お?舞子ちゃんも一緒やんけ?」
タカトモが上機嫌で手を振った。
聞けば、あれ以来ミナコとすっかり意気投合し、何度もデートを重ねているらしい。
もう付き合うのも時間の問題だ、と得意げだった。
「あ、今日は舞子ちゃんにもご馳走すんで。ハルヒトは、コロッケも付けてええぞ」
タカトモが胸を張るので、僕は遠慮なく鯖煮定食にコロッケを付けさせてもらった。
運ばれてきた“例の鯖”は、記憶どおり、いや記憶以上に黒かった。
漆黒というより、釉薬を厚く塗った陶器のような黒さで、照りまでついている。
黒い煮汁から立つ湯気が、甘辛い匂いと生姜の刺激をふわっと運んでくる。
舞子も春に広研のミニコミの取材で一度食べたはずなのに、運ばれてきた瞬間、思わず息を飲んでいた。
「……やっぱり黒いね……」
と、小声でつぶやく。
その声音が、初見の驚きではなく “知っているのに抗えない” という、あの独特のトーンなのが可笑しい。
箸を入れると、身は相変わらずほろりとほどけた。
骨はほぼ融けかけで、煮汁をたっぷり吸い込んでいる。
口に入れた瞬間、舞子は目をつむって、かすかに肩を震わせた。
「ああぁ……やっぱり……」
と言って、もう次のひと口へ進む。
甘辛い煮汁は相変わらず濃厚で、ショウガの香りが押し寄せてくる。
白飯が無限に進む“強制力”がある。
味噌汁のちょっとした塩気が、その強制力を後押ししてくる。
ここまでご飯泥棒な一品、全国探してもそうそうない。
「ご飯おかわりもええか?」
とダメ元で聞いてみたら、案の定、タカトモは即答した。
「さすがにそれは自分で払え」
まあ、それはそうだ。
舞子はというと、
「タカトモさん、鯖さん、いただきます!」
と最初に宣言してからは、一切会話をせず、ほっぺたをパンパンにして黙々と食べ続けている。
鯖の骨を外す手つきが手慣れていて、ちょっと感心した。
ひと筋ひと筋、迷いなく箸を入れていく。
時折、口いっぱいに頬張りながら、満足そうに頬をふくらませて僕の方をチラッと見る。
──美味しい。
その一言だけが、表情に全部書いてあった。
舞子が再び鯖に向き直り、幸せそうに箸を進めているのを見て、僕とタカトモは思わず顔を見合わせて笑った。
ひとしきり “舞子の食べる無心さ” に場が和んだところで、タカトモがコップの水を一口飲み、ふっと表情を戻した。
「前から気になっててんけどな、ハルヒト……」
と、少し真面目な声に切り替える。
「お前、音楽やってたやんな?」
「うん、やってたけど、なんで?」
「いやな、琵琶湖のバーベキューの時に俺がギター弾いてたやん、あの時にお前が『ちょっと貸して』言うて、6弦から順番に音出して、『3弦が1/8音低い』言うてチューニング直したやんけ?」
確かにやった。
タカトモのストロークが微妙に不協和音で気持ち悪かったのだ。
「やっぱりな。あれは絶対そうやと思たんや。ほんで、どんな事やってたん?」
僕がギターを始めたのは、中1の文化祭で3年生のバンドがアリスの「チャンピオン」を演奏したのを観たのがきっかけだった。
衝撃で頭が真っ白になり、年明けにお年玉で2万円のモーリスのフォークギターを買った。
それからは毎日ひたすら練習。
指先が腫れて脈と一緒にズキズキ痛んでも弾き続け、タコが固まる頃には、コード譜さえあれば大体の曲は形になった。
──ありがとう、月刊明星ヤングソング。
中2の文化祭では友達とバンドを組み、アリスの「狂った果実」と長渕剛の「順子」を演奏して大盛り上がり。
中3も同じく文化祭で、アリスの「ゴールは見えない」と松山千春の「旅立ち」をやった。
「フォーク系やな。ほんで高校は?」
タカトモが身を乗り出す。
高校ではラグビー部と軽音部を掛け持ちしていた。
高3の文化祭でやったのは、アースシェイカーの「MORE」とディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」。
「え?方向転換エグない!?フォークからのエレキ!?」
「いや、その時はドラム」
「なんでやねん!」
実はその頃、個人的には甲斐バンドにどハマりしていて、大津・京都・大阪城ホールと同じツアーを追いかけるほどだった。
聴くだけじゃ飽き足らず、バンドスコアを買ってギターだけでなく、ベース、キーボード、ドラムまで練習した。
そのうち数曲は、全パート通して演奏できるまでになっていたので、クラスで「誰かドラムできん?」と声がかかった時、自然と手が上がったというわけだ。
ちなみにハードロックやヘヴィメタルはほとんど聴かない。むしろうるさくて苦手なくらいだ。
「へー、ハルくん、部屋にギター置いてるから弾けるんだとは思ってたけど、器用なんだねー」
鯖と白ごはんを食べ終わった舞子がお味噌汁を飲みながら言った。
「そうか!そんで今はどんなバンドやってんねん?」
「いや、大学入ってからは音楽関係は何にもやってへんねん。入学した時、軽音部にするか、シーズンスポーツサークルにするか、ラグビー部にするか、広研にするか悩んで、広研選んだねん。」
「いや、選択肢がおかしいけど、まあええわ。ほな、今はバンドとかやってへんねんな?」
「せやな」
「よっしゃ!ほな近い内にまたその件で電話するわ!」
『その件』が何の件なのかはよく分からなかったけど、舞子の分まで鯖煮定食をごちそうになったことだし、OKと答えて、
舞子と「ごちそうさま」と手を合わせてその日は解散した。
店を出ると雨はすっかりたんで、青空に鯖の骨みたいな筋雲が何本も浮かんでいた。
その空を見上げながら、なんとなく、また何かが動き出す予感がした。
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