第7話 妻の自覚

 高臣は畳の上に座り、神妙な顔で頭を下げている。彼がいるのは宮廷の敷地内、帝が住まう御所の中にある大広間だ。縦に三つに区切られた部屋の一番奥は『上段の間』と呼ばれ、帝が座る。と言っても高臣が直接帝の顔を見ることはない。高臣が座る『中段の間』との間は御簾みすと呼ばれるすだれで仕切られ、高臣は御簾の向こうに帝がいる気配を感じるのみである。


 帝の言葉は、お付きの侍従から高臣に伝えられる。侍従は帝からの言葉を受け取り、御簾の前に座ると高臣に向かって帝の言葉を伝える。


「先の『永田博』の怪異退治はご苦労であった。そこで見つけた『一ノ倉薫』の千里眼については、こちらでも調べさせているところである」


 高臣は頭を下げたまま「はっ」とだけ返す。今日は帝に永田博の怪異を退治したことと、千里眼を持つ薫の報告をしたところだ。怪異を一体倒しただけで帝に直接報告することはない。本題はもちろん、平民でありながら千里眼を持つ薫についてのことだ。


「一ノ倉薫については、引き続き目を離さぬよう。最後に、二人の結婚をお祝い申し上げる。以上、今上様のお言葉である」


 高臣は帝から祝いの言葉を聞き、一瞬動揺を見せたがそれを悟られないように「はっ!」と答えた。




 中段の間を出た高臣は、ようやく緊張が解けてホッとした表情だ。帝とは同じ『千里眼』を持つ血の一族であるが、そんな彼でも帝に直接会えるわけではない。帝の年齢は三十だと聞いているが、顔を見ることは叶わないので実際帝が何者なのか知る由もない。


 薫の力は帝にとっても興味深いようだ。千里眼の力は遺伝によって受け継がれるが、必ず子に伝わるというものでもないらしい。子供には力が受け継がれなくても、孫やその孫に力が現れる場合もあるという。

 つまり、薫の先祖を調べれば必ず帝と血縁がある誰かに辿りつくだろう。ただ、それを突き止めるには時間がかかるだろうと高臣は考えていた。一族の誰かが不義をして平民に子供を産ませたという話は、簡単には出てこないはずだ。

 たとえ誰の子であったとしても、薫を一族に引き入れたいと考えたのは高臣だけではない。当然ながら、これは帝も賛成してのことだ。でなければ薫と高臣の結婚が許されるはずもなかった。宮廷内には貧しい家で育った薫と高臣の結婚を嫌がる向きもある。それでも最終的には許可せざるを得なかったのは、千里眼を持つ者が近年急速に減っているからである。


(千里眼を持つ者が減ってきたことに、とうとう宮廷も焦り出したということか)


 高臣はため息をつきながら、気が遠くなるほど長い廊下を一人歩いた。



♢♢♢



 薫と高臣が一緒に朝食を取るようになり、数日が経った。相変わらず二人の間に会話はないが、初日のような気まずさはない。高臣はいつも帰宅が遅いので、夕食はこれまで通り別々だ。

 高臣の真似をして、薫も彼が読み終わった新聞に目を通すようになった。帝都で起こった事件や事故はもちろんのこと、行事のお知らせや巷で起こっている流行や、連載小説などもあって薫のささやかな楽しみになった。


 新聞を一通り読み終わり、薫は椅子から立ち上がる。お茶を片づけようとお盆を手に取ったところで、玄関のチャイムが鳴った。誰が来たのだろうと思っていると、春江が薫を呼びにやって来た。


「薫様、百貨店の方がいらっしゃいましたので、ちょっと来ていただけますか?」

「百貨店? 何の用ですか?」

「高臣様が、薫様の着物を揃えるようにと」

「は!?」


 思わず驚いて大きな声が出てしまう。薫がいつも着ている普段着の着物は立派なもので、特に不自由は感じていない。


「……私のものですか?」

「ええ。急な結婚でしたので、薫様のものが何もかも足りておりませんから、高臣様から外商の方を呼ぶようにと言われておりました」

「……そう、ですか……」


 戸惑いながら薫は春江と一緒に応接間に向かう。そこには既に百貨店の外商が二人いて、傍らには大きな鞄が置いてある。彼らは薫が現れると慌てて椅子から立ち上がった。


「奥様でいらっしゃいますか! 私、三坂屋百貨店外商部の橋本と申します」


 自己紹介してきた外商部の男は部下を連れていて、薫の為に様々な商品を持ってきていた。彼らは早速、薫が見たこともないような美しい反物をテキパキと並べた。


「薫様の印象を事前に伺いまして、いくつか持って参りました。ぜひ手に取ってご覧ください」


 外商部の橋本はにこやかな笑顔で、薫に反物を見るように勧める。薫は戸惑いながら横に立つ春江に視線を送った。春江は頷きながら「薫様のお気に召すものを選んでくださいませ」と薫を促した。

 恐る恐る薫は反物にそっと触れる。ひんやりとして手触りのいい生地に描かれた美しい柄。どれも艶やかで、薫の正直な感想を言えば(どれも高そう)である。


「薫様のような美しい方でしたら、どれもお似合いでしょうが……何か気に入った柄はおありですか?」

「ええと、全部素晴らしくて私には選べません」


 橋本のお世辞に愛想笑いを返しながら、薫は困惑していた。どれがいいと言われても、どれを選べばいいのか分からない。全部素敵としか言いようがないのだ。


「それでしたら、ちょっと失礼して……」


 橋本は反物を持ち上げ、薫の肩にかけてどれが似合うか見始めた。それを春江も一緒に見ながらこれはどうだ、あれはどうだと話し込んでいる。


「薫様は青や紫がお顔に映えるようです」

「確かに、春江さんのおっしゃる通りですね。では訪問着はこちらにしていただくとして……」


 薫には何がいいのか悪いのかちんぷんかんぷんだが、とにかくこういうことは分かる人に任せた方がいい。春江と橋本が話し合い、帯や小物類も次々と選んでいく。ようやく一着選び終えたと思ったら、次は普段の外出用にと小紋を選ぶ。こちらは全体に小さな模様が描かれた控えめなもので、薫も一目見て気に入った。

 着物に合わせた草履も一緒に選び、とりあえず薫の着物は一通り揃った。外商部の橋本は妙前家とは長い付き合いだということで、春江も彼のことは信用しているようだった。薫が平民であることを当然橋本も知っているはずだが、彼は薫に対して誠実に接している。腹の中ではどう思っているか見えないが、少なくとも薫が嫌な思いをすることはない。


「……それでは、これで失礼いたします」


 長い時間をかけて着物を選び終わり、商品を全て鞄にしまった橋本と部下の二人は、立ち上がって薫に頭を下げた。


「ありがとうございました」

「いえいえ、お礼なんてとんでもない。今日は着物を持って参りましたが、高臣様からは他にも色々持ってくるようにと頼まれております。明日もまた訪問させていただきますので、よろしくお願いいたします」

「明日も!? ……わ、分かりました。よろしくお願いいたします……」


 どうやら薫の買い物はこれだけでは終わらないようだ。今日だけで沢山の商品を売った橋本は、嬉しさが抑えきれない表情で妙前家を後にした。


「春江さん、明日も来ると言っていましたけど……」

「ええ。他にも鞄や洋服や、装飾品なども必要です。他にも薫様が必要だというものがあれば、何でもおっしゃってください。すぐに手配をいたしますので」

「何から何まで、すみません……」


 春江は体を縮めて恐縮している薫を見つめ、静かに口を開いた。


「突然このようなことになって、薫様が戸惑ってらっしゃるのは存じておりますが、薫様は高臣様の正式な妻なのです。背筋を伸ばし、堂々としてくださいませ」


 薫はハッとなり、言われた通りに背筋を伸ばした。薫にとって春江は、この家に来てからの世話役であり教師のような存在でもある。春江は妙前家の遠縁であり、高臣が幼い頃の家庭教師もしていたという。春江は薫を高臣の妻として相応しい女性にする為に、忙しい仕事の合間を縫って世話をやいてくれているのだ。


「春江さん、すみません。私、もう少し頑張らないといけないですね」


 春江はピンと背筋を伸ばし、口をぎゅっと結んでいる薫の顔を見て頬を緩めた。


「薫様は既に頑張ってらっしゃいます。薫様に足りないのは、自覚かと」

「自覚?」

「ええ。ご自分が高臣様の妻であると言う自覚です。ですが……これは高臣様にも問題がございますね。高臣様にも薫様の夫としての自覚が必要ですのに、あの調子ですから」


 薫と春江は顔を見合わせ、お互いに微笑んだ。




 その夜、帰宅した高臣を玄関で出迎えた薫は、早速着物のお礼を彼に伝えた。


「高臣様、今日百貨店の方が来て、沢山着物を注文させていただきました。ありがとうございます」


 緊張気味に話す薫の顔をちらりと見た高臣は、ふいと顔を逸らした。


「僕はあなたの生活を保障すると約束した。あの着物は必要経費だよ」

「あ……そうですよね。でも、あんな高価な着物を沢山……」

「だから、いちいち僕に礼を言うことはない。他にも欲しいものがあれば何でも買いなさい」

「はい……」


 無表情のまま面倒臭そうに返した高臣は、スリッパに履き替えるとさっさと二階に上がって行った。玄関で高臣の後ろ姿を見送った薫は、呆然とした後段々怒りが湧いてきた。苛々した気持ちを押さえようと、薫は台所に行ってガラスのコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。


「何よ、一言お礼を言いたかっただけなのに……あの仏頂面!」


 思わず小さな声で独り言が出てしまった。間の悪いことに、そこへちょうど春江が台所に入って来た。


「あ!」


 しまったと思ったがもう遅い。今の独り言は確実に春江の耳に入ったはずだ。焦りながら薫は愛想笑いでごまかす。


「高臣様はあまり感情豊かな方ではないですが、あれでも薫様のことを大切にしてらっしゃると思いますよ」

「いや、あの、すみません! さっきはちょっと口が滑ったというか……」

「どうも女性と話すのが得意ではない方のようで……弟の高明様がいらした頃は、高明様が上手く間を繋いでくださったのですが」

「高明様が?」


 春江は寂しそうな顔で頷いた。高臣の双子の弟だった高明はあまり体が丈夫ではなかったようで、幼い頃は床に臥せることが多かったと言う。だが高明が持つ千里眼の力は素晴らしいもので、高臣が弟を守りながら怪異退治に励んでいた。そんな高明が病で亡くなってから一年が過ぎているが、高臣は未だ、弟を亡くした悲しみが癒えていないかもしれないと春江は話した。


「この家は元々ご兄弟お二人で暮らしておりました。高明様の部屋は未だに当時のまま残してあります。私は、この家に薫様が住まわれることで、薫様に少しずつ家の空気を変えていただけたらと思っているのです」


 春江の思いを聞いたのは初めてだった。家の中は綺麗に片づけられていて、今は高明のいた痕跡は残っていない。二階の一室だけは固く閉ざされ、その中は高明が生きていた頃のまま残されている。


「私が、変えてもいいんでしょうか?」


 戸惑いながら尋ねる薫を見つめながら、春江は優しく微笑んだ。


「そう願っております」

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