第2話 残された栞と、遠い日の面影

 会社に戻ってからも、あの男性のことが頭から離れなかった。ぼんやりとPCの画面を眺めながら、恵比寿の交差点での出来事を反芻する。琥珀色の瞳。どこかで見たことがある。しかし、どれだけ記憶を辿っても、具体的な顔が浮かんでこない。


 その日、企画会議は滞りなく終わったものの、どこか上の空だった。ふと、デスクに置いたままだった手帳に目が留まる。先ほど彼が拾ってくれた手帳だ。パラパラとページをめくると、今日の日付のページに、見慣れないものが挟まっているのに気づいた。


 それは、薄いベージュ色のシンプルな栞だった。紙質は少しざらっとしていて、指紋がつきにくいタイプ。そして、その栞の端には、小さな活字でこう書かれていた。


「夜のカフェテラス」


 ハッとした。彼が持っていた文庫本のタイトルだ。きっと、手帳を拾い上げてくれた際に、彼の本から滑り落ちて、私の手帳に挟まってしまったのだろう。彼は急いでいたし、私も気づかなかった。


 栞を指でなぞる。彼の本に挟まっていたもの。そう思うと、不思議と胸が高鳴った。彼は今、どこにいるのだろう? この栞を失くしたことに、気づいているだろうか?


 デスクに備え付けのマグカップで、冷めたコーヒーを一口飲む。微かに残る苦みが、あの時交差点で感じた、言葉にならない感情と重なった。


 私はデザイン会社でグラフィックデザイナーをしている。普段はクライアントからの依頼に沿って、論理的に、そして感情に訴えかけるデザインを追求しているけれど、今日はまったく集中できない。脳裏には、琥珀色の瞳が焼き付いている。


「ねぇ、千尋。なんか今日、上の空だね」


 声をかけてきたのは、同期で一番の親友、美咲だった。彼女は人懐っこい笑顔で、いつも私のことを気にかけてくれる。


「え、そうかな? なんでもないよ」

 私はとっさに栞を手のひらに隠した。

「んー、なんだかソワソワしてる感じ? もしかして、また新しい恋の予感?」

 美咲がからかうように笑う。


「まさか。そんなんじゃないよ」

 私は否定したが、美咲の言葉が、なぜか胸にチクリと刺さった。恋。ここ数年、私にとって「恋」というものは、遠い日の記憶のようになっていた。仕事に打ち込み、日々を忙しく過ごす中で、恋愛はいつしか後回しになっていた。


 だが、今朝のあの出会いは、そんな私の中に、小さな火を灯したようだった。まるで、忘れかけていた感情のスイッチが、突然入ったかのように。


 夜、一人暮らしのマンションに帰り着き、ソファに深く身を沈める。窓の外は、もうすっかり暗闇に包まれていた。手帳から取り出した栞を、改めてじっと見つめる。


「夜のカフェテラス」


 この本は、きっと彼にとって大切な一冊なのだろう。そう思うと、この栞を彼に返したいという気持ちが、募っていった。しかし、連絡先も、名前も知らない。たった一度、雨上がりの交差点で、数秒言葉を交わしただけの相手。


 彼の琥珀色の瞳は、一体誰の記憶と重なるのだろう? 過去の記憶を辿る。幼い頃の記憶、学生時代の記憶……。しかし、どれだけ思い出そうとしても、明確な像は結ばれない。もしかしたら、単なる気のせいなのかもしれない。


 でも、この胸のざわつきは、気のせいなんかじゃない。私はそっと、栞を愛用している文庫本に挟み込んだ。この栞が、再び彼と私を結びつける、唯一の手がかりになるかもしれない。


 明日は、あの交差点に、少しだけ早く行ってみようか。そんなことを考えていると、私の心に、ほんの小さな希望の光が灯った。

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