2.奴隷の少女

 男は少女の服の汚れを払って落とし、少女を宿屋の寝台に寝かせた。

 少女の身体にはほとんど肉がついていないように見えた。足首には奴隷の逃走を防ぐ枷が見える。手枷がないところを見ると、何らかの手仕事をしていたのだろう。

 男はそっと少女の手を取って観察する。手は荒れに荒れ、あかぎれができている。仕事は洗濯か食器洗いといったところだろう。

 指先が冷たく皮膚に弾力がない。明らかな脱水症状だ。

 歩き回って転んだのか、膝を擦りむいて血を流していた。

 男が少女の膝と手に薬を塗っていると、少女が目を覚ました。

 少女はぼうっとしたまま男のすることを見ていた。

 男は少女の枕元に顔を近づけ、尋ねた。

「名は?」

 少女は少しの沈黙のあと、首を横にふる。

 男は再び尋ねる。

「父、あるいは母の名は?」

 少女はまたしても首を横に振った。

 男は特に驚いた様子もなく、そうかと頷いた。奴隷には出自が不明のものが多い。生まれたときからの奴隷であれば、名も与えられず父母と共に居たこともないというのはさして珍しくもない。

 突然、くぅと小さな音が鳴った。

 少女はしまった、とでも言うように自分の腹をおさえる。

「そこで待っていろ」

 そう言って彼は背を低くして扉をくぐり、部屋を出た。

 彼は下階に降り、宿屋の主人に頼んで野菜のスープとパンを二つずつ貰って戻って来た。

 少女はちらりと男の方を見るが、それだけだった。少女は虚ろな目で虚空を見つめていた。

 男は少女の眼の前に椅子を持ってきてそこに腰掛ける。

「何日食べていない?」

 少女は答えない。少女は男を見ていなかった。聞こえているのかもわからない。

 男は少女の膝の上に盆ごと椀を一つ置いた。そして、自分はもう一つの椀のスープを食べ始めた。

 少女は食べなかった。

「どうした。腹が減っていないのか?」

 男が尋ねても、少女は何も言わない。

 ――――彼は少し考え、やがて言った。

「食え。食わなければ死ぬ」

 その言葉を聞くと少女はびくっと身体を震わせた。やっと椀に手を伸ばし、手に匙をとって食べ始めようとした。ところが、匙は少女の手からするりと抜け落ちて布団の上に落ちた。少女の手は震えていて、ものをうまく掴めないようだった。

 何度も、何度も、匙を掴んで食べようとするが、うまくいかない。

「貸せ」

 差し出された男の手に、少女は匙を手渡した。

 彼は匙でスープを掬い、少女の口元に運んでやった。しかし、それでも少女はなかなか食べようとしなかった。

 男には、少女が生きる力を失っているというよりも生きることを拒絶しているように見えた。

「水だ」

 彼は水袋を取り出し、少女の口に近づけた。

「飲め」

 語気に押されてか、少女は今度はすんなりと水を飲んだ。喉を動かし、小さく音を立てて二口飲んだところで男は少女の口元から水袋の口を離した。

「これからどうするかは後から考えればいい。今は食え」

 彼は無理に押し込もうとはせず、少女の口元まで匙を持っていって、少女が自分から食べるのを待った。

 彼女は最初のうちはためらっていた。しばらくしてようやく一口目を食べた。

「急ぐな。ゆっくりだ」

 少女は野菜が溶けたスープをゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。

「自分で食えるか?」

 男が声をかけるたびに少女は少し身をこわばらせた。

 少女は右手を布団から出し、差し出された匙を握ろうとした。しかし、つかもうとすると指先が震え、匙を取り落としてしまった。

「ぁ……」

 彼女は蚊の泣くような声で何か言おうするが、それは言葉にならない。

 男は匙を拾い、床にこぼれてしまったスープをぼろ布で拭いた。

 少女はぎゅっと目を瞑っていた。まるで、何かを恐れているかのように。

 しかし男はただもう一度匙を差し出すだけだった。

 目を開けた少女は少ししてからまたスープを食べ始めた。ゆっくりとだったが、だんだんと椀の中のスープがなくなっていった。

 差し出される匙からスープを一杯分食べ終えると、少女はまたぼんやりし始めた。

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