Day30 花束
「当たり前だ……」
力を込めた指の震えに反して、青年の声は吐息のように細かった。
「あんたは、自分だけが言い訳をして――俺がどれだけあんたを探したか、話を聞く気なんて……まったくないんだ」
そして、何度も深呼吸を繰り返しながら絞り出された言葉は、怒りよりも強く訴えの色を帯びていた。
『許しておくれでないんだね……』
諦観のそれでもやはり淡い笑みを浮かべる老人に、青年はホンのわずかに首を振った。
「許されたいなら――俺をひとり残すような、真似をしてくれるな……」
一息に囁き声で吐き出した青年は、ふつりと糸が切れたように老人の薄い肩に額を落とした。それは、幼い子供であれば、保護者の膝や腹にすがる仕草に似ていたろうか。
青年は、孤独だった。肉親に縁薄く、いわゆる訳アリの子供であると自覚せざる得なかったゆえに、他人の輪からも縁遠く生きていた。
青年にとって、年に一度だけ夏の夜に会いに来てくれる若者は、唯一、しがらみと切り離されて青年を気にかけてくれる存在だった。
青年との距離に戸惑う祖父母より、青年など意識の片隅にもない母より――青年にとって、素性どころか名も知れぬ若者は特別だったのだ。
『わたしは、お前さんに……酷なことをしたものかねぇ』
老人の瘦せた手が、青年の背に伸びる。
あの頃のように色は白いが、艶を失くし皺を刻み筋張った手は、あの夜から過ぎた歳月の証しだった。それだけの時間に、何も知らされなかった青年は置き去りにされたのだ。
『でもねぇ、勘弁しておくれ……一度、手放してしまったわたしには、その命の肩代わりはできないのさ』
はぁ…長くこぼされるのは、青年の溜め息。
「俺は、残らなければならないのか……?」
『そうさね……わたしがもらったお前さんの寿命も、さすがにそろそろだろうからねぇ』
筋と節の目立つ手に促され、青年はのろのろと頭をあげる。
印象を茫洋とさせる表情に乏しい
『お前さんは、健気だねぇ……。闇なんぞ飼えやしないんだねぇ』
老人は、眩し気に目を細めた。
「ふたりの世界を作るなら、せめて場所を変えれば?」
不意に、鈴を転がすような澄んだ声が降ってきた。
『なんだい、
振り仰げば、すっかり暗くなってしまった階段を下る、白く小柄な人影があった。
薄く華奢な身体に白い半袖シャツと膝丈ほどの黒いハーフパンツを纏った少年は、この建物が小学校であったのであれば、本来ならば似つかわしい姿だったかもしれないが、屍が転がる踊り場に平然と降り立つ様子は、老人と青年意外に見るものがあればやはり異様に思われたことだろう。
「違うよ、って言いたいけど……少しは、認めてもいい」
少年は、いつの間にか青年の手から離れ忘れ去られていた小さな花束を拾うと、降りてきた階段の最後の踏面の隅に手向けておいてから、少々もったいぶってふたりを振り返る。
「あんたのことは好きでも嫌いでもないけど、そっちの『お兄さん』のことは、僕だって買ってるんだよ」
そうして、改めて青年の前に立つと、見上げる黒目がちの瞳の上の眉の端をわずかに下げて微笑んだ。
「僕は、君のことは、けっこう好きだよ。だから……」
青年は、ふわりと傾ぐ自らの身体を自覚した。
「君が望むなら、君の長すぎる時間を僕が引き取ってあげてもいい」
今さら上乗せされたところで意味はないけどと、小さく整った赤い唇が動く様子を青年は老人の肩に支えられながら、他人事のような気持ちで眺めた。
『わたしも一緒に終わらせようかね。お前さんにゃ、辛い思いばかりをさせちまったしねぇ』
力の抜け始めた手のひらに滑り込まされた手は冷たかったが、ずっと欲しかった温もりにとても似て思われた。
ぽぅ…と、寄り添う身体に、蛍火のような淡い光が生まれた。光はやがて小さな小さな粒子となり、ふわふわと世界に立ち上り始める。
「さようなら」
広がり薄まる身体と意識の遠くに、少年の
「ありがとう」
青年の最後の声は、光の明滅となって世界に溶けた。
暗闇と静寂の戻った校舎から立ち去る小柄な人影を見送るものは、もう誰もいなかった。
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