Day26 悪夢
綺麗な音楽だけを奏でていられればよかった――。
ピアノを弾いていたかった。
父親はピアニスト、母親はバイオリニスト――物心ついた頃から、彼にとって音楽は身近だった。特にピアノは誰に言われたでもなく自ら弾き始め、難しい曲の練習も苦に感じることなく、ただひたすらに好きだった。
彼自身の指の奏でる音が、世界で一番好きだった。
長じてその道をたつきとし、なんと幸せなのだろうと感動さえしていた。
そこに、幼い頃に海外に越してしまった友が帰ってきた。
彼に憧れて、遅咲きながらもピアニストとして。
友の響かせる音を彼は、これまで聞いたどんな音よりも好きだと感じた。それこそ、彼自身の奏でる音よりも。
友と同じ曲を奏でることに気後れし、異なる曲を弾いても友ならばどんな音を響かせるのであろうかと思いを馳せずにいられず、鍵盤に下ろす指が震えた。
それでも――友の音が、好きだった。
自分の指では奏でられない、友の響かせる音に魅了された。
しかし、友が多くの人々の前で演奏する時間は、そう長くは続かなかった。
指に怪我を負い、手慰み以上の技術をもって演奏することができなくなったのだ。
失意の友を彼は、まだ季節の早い避暑地の別荘に誘い、演奏以外で音楽を続けてはどうかと訴えた。
「ふたりで、曲を作ろう。歌のついた曲を」
友の響かせる音が、その曲や――もしや、友の歌う声に宿りはしないかと。
はたして、友の声のうちに、友がピアノで響かせた音を彼は認めた。
そのひと夏をかけて、ふたりは子守歌のような童謡のような、牧歌的な歌を作った。
技巧など考えず心に浮かぶままを綴った、詞など幼い子供の言葉遊びのように謎かけじみてさえいた。
彼がピアノを奏で、友が歌った。
友の音は再び響いた。
そして、山が赤や黄色に色付く頃、友は姿を消した。
「どうして……」
『そりゃぁ、お前さんがそうしたかったからじゃあないか』
覚えずこぼれた独り言に応えた声に、彼は聞き覚えがあった。
白髪交じりの髪を襟足で束ねた、壮年をいくらか老齢に差し掛かろう和服姿の男性だった。若い頃には美貌で鳴らしていたと思われる、目尻や口元の皺を深めてもなお品の良い顔立ちに、半年ほども前に出会った時と変わらぬ笑みを浮かべていた。
「あなたが、あの音はピアノのためだけのものではないと、僕を唆しておいて……」
『確かに、わたしは言ったがね……。お前さんが知りたかったことをちょいと教えただけじゃぁないかえ』
細められた瞳が、彼の本音を知っていると語っていた。
『わたしに出来ることは、見ていることだけさね』
お前さんが、望みを叶える様子をねぇ……かすれた声だけを残して、男性は夜の中に消えた。
本音を……。
友の指の怪我は、友の不注意などではなかった。
彼を庇ってのことだった。
彼が、そう仕向けたのだとも知らずに。
友の響かせる音が、好きだった。
独り占めにしたいほどに、好きだったのだ。
だから――。
ふたりだけの曲に、ふたりだけの歌――友の歌声は、彼だけが聞いた。
彼の足元で動かなくなった友の咽喉がこの先、あの音を響かせることはない。
それは、もう彼だけのものだった。
「でも、ピアノを聞いた者は、まだいる……」
あの音を聞き留めることのできた者がいる限り、友の音は彼だけのものにはならないではないか。
春先まで仲間だった者たちを思い浮かべる。
彼の背後で、闇が低い獣じみた唸り声を発した。
しばらくして、若い音楽家が行方不明になった。
夏になるごとに、数名ずつ。
最後の行方不明者は、彼自身だった。
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