Day21 海水浴


 今日は、どうしてやろう……。

 帰宅するとすぐ、彼女は通学カバンからノートを取り出した。走り書きで埋まるそれは、彼女のネタ帳だった。物心ついた頃から物語を読むことが好きだった。校庭で遊ぶよりも読書の方が楽しかった。自分の小遣いで集めているシリーズもあったし、図書館の本を借りることも少なくなかった。たくさんの物語を読むうちに、自分ならこんな展開にしたいと自分の好みが主張をはじめ、登場人物や世界や事件を考え出して書き留めていくうちに、なるほど自分で書いてもいいのだと思い至った。

 そこには、自分が創造主となった世界があった。

 それは彼女にとって、大きな救いになった。


 おしゃべりが下手な自覚はあった。特に集団の中でのおしゃべりは苦手で、誰かと誰かと誰かがしゃべっている――その内容はしっかり理解できているし、自分の思うところもあるのだけれど、会話に入るタイミングが掴めず、いつも最後に諾を返すことしかできなかった。たまに、強く意見を聞かれて、話題のかなり頭の部分から別の考えを持っていたのだと正直に告げれば、今さらが過ぎると叱られた。

 運動も得意ではなかったので、体育の授業でもスポーツ大会でも彼女が同じチームにいて喜ぶ者はいなかった。授業であり学校行事であるため、全員が参加を強制される――どうしても何らかのポジションを担う必要があり、彼女としてもできるだけ大きな影響のない役割を振られることをいつも願った。

 座学は苦にならなかったし、知ることは物語を読むことと同じように楽しかったので、学業成績はそこそこには良かった。決してトップクラスではなかったけれども、教室の隅でいつも本を読んでいる無口な生徒が、鼻につく程度ではあったらしい。


 それは、ちまちまとした嫌がらせだった。


 体育の授業中、バスケットボールを背中や肩に何度もぶつけられた――顔面にぶつけられた際は、さすがに危険行為として試合上ではペナルティをぶつけた生徒には教員による厳重注意がされたが、担任はその後も我関せずだったので、彼女がパスを受け取り損ねたことになっているのかもしれない。

 教室内では、たびたび机の上のものを落とされる、配布物を受け取る前にばら撒く、上履きを廊下に蹴りだされる、時には目の前でペンケースから文房具を持ち出されて勝手に使われることもあった。

 わかりやすい子供じみた嫌がらせにいちいち反応するのも莫迦らしいし、ほとんどの場合、自分で拾って回れば済むことだったので黙っていたが――ある日、授業中に例によって勝手に持っていかれ何人かの手を渡った消しゴムを窓から外に放られたのには、さすがに不快を感じた。消しゴムは地上まで落ちることなく、正面玄関の張り出しの上に落ち、回収することはできなかった。


 その日から、封鎖された学校を舞台に、閉じ込められた登場人物たちが徐々に日ごろの不満を曝け出しぶつけあい殺し合いのはじまる物語の構想を練り始めた。

 作中では、彼女に嫌がらせをした連中は、仲間同士で殺し合うか、主人公によって屈辱的な殺され方をした。担任に至っては、主人公が何かするまでもなく、大勢の前で糾弾されなぶり殺しにされた。

 ひとりずつあるいは、名もない端役としてあっけなく死んでいく描写を練っていると、溜飲が下がるだとか気が済むだとかとは別の次元で、心が静かに凪いでいった。


 次に何をしでかしてくるか――苛立つごとに想像の中で様々な殺し方が思い浮かぶようになってくると、嫌がらせをされるのも楽しみになってきた。


 さぁ。今日は、どうしてやろう……。



『あぁ、しんどかったねぇ』

 下校中、手にしたネタ帳を取り上げられ、例によって数人で投げ回したあげくに道路脇の用水路に投げ込まれた。午後に降った激しい雨に用水路は増水し、ごうごうと何時にない速さの茶色く濁った流れは、あっという間にノートを呑み込み持ち去った。

 彼女は、ただ茫然と見送り――立ち尽くしていた。

『お前さん、どうしたいね?』

 老人の声は、労わりを含んで思われた。

 その老人が、白い夏物の着物を着ていることは視界の隅に見て取れたが、彼女は振り向かなかった。


 これは、背中を押すものだ――。


 彼女自身、意味は解かりかねたが直感した。

「自由になりたい」

 声にしてみれば、それは真実――本心だった。

 流れに呑まれ消えていくネタ帳を見ていて、莫迦莫迦しくなると同時に、なんだか情けないような気持ちになった。

「そんなことのために書こうとしなきゃよかった……」

 結局、好きなことにまで下らない存在の浸食を許してしまったのは彼女自身だ――そのくせ確かに楽しかった……それが、虚しく思えたし、腹立たしくもあった。

 そして――。

「そういうの……縛られてるの嫌だな、って……」

 あれこれ感じて考えて振り回されることから、解き放たれたくなった――。


『声をかけるんじゃ、なかったかねぇ……』

 老人のひとり言には、首を振る。


『そうかい? なら、よかったかねぇ』


 安堵する声を耳に残して、彼女は虚に飛び込んだ。

「わたし、泳いでくる」


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