ブルー・バイ・ユー

@asuwa_tonbo

第1話 落書きのような日常

僕は、あのとき確かに――先生に、キスしようとしていた。


誰もいない保健室。

白いカーテンがゆるやかに揺れ、窓の向こうで午後の光が滲んでいた。

静けさの中、僕は太田先生の膝に頭を乗せて、目を覚ました。

眠っていたはずなのに、胸だけがざわざわと波打っていた。

ふと、すぐ目の前に先生の顔があった。


高い頬骨。通った鼻筋。滑らかな肌。

そして――唇。


あと少しで、触れそうだった。

指先が勝手に伸びていた。なぞってみたかった。

何かを、確かめたかった。


こんな感情が、自分の中に現れるなんて、知らなかった――



夕暮れの教室は静かだった。

風に乗って、どこか遠くで野球部の掛け声が聞こえる。「ラスト一本ー」「いけるいけるー」。芝居じみた声に、僕は思わず小さく笑ってしまった。


教室には僕しかいなかった。

日直のノートを机の隅に置いて、片肘をつきながら、開いたノートに鉛筆を滑らせる。

濃淡のある線が、紙の上に一つの輪郭を描き出していく。


描いているのは、数学の授業で教壇に立っていた――太田知良。

白いシャツの袖をまくり、チョークを走らせる姿。

何の気なしに見ていたはずなのに、なぜかあの瞬間だけが、鮮やかに焼きついていた。


夢中になっていた。

ノートの罫線も無視して、何度もなぞるように線を重ねていた。

僕は、この人の顔ばかり描いている。


どうしてだろう――と、自分でも思う。


でも、答えは出ない。

ただ手が、勝手に動いてしまうのだ。



この町に来たのは、春が始まったばかりのころだった。

大阪の私立中学をやめて、こんな港町の高校に編入するなんて、普通はしない。

でも、僕の意思は関係なかった。父さんが決めたことだった。


「お前は甲子園を目指せる選手だ」

「野球に集中できる環境が必要だ」

そんな言葉を盾に、僕はこの町に連れて来られた。


関西圏から遠くない町。

甲子園に出場するために――、たったそれだけのために、

大阪という甲子園出場の激戦区を逃れて編入してくる者たちがいるのだ。


確かに、野球はそれなりにできた。

でも、もう夢中にはなれなかった。

中学の最後に見た敗退の光景が、どこかで何かを冷ました。


大阪には、好きなものがいくつもあった。

通っていた画材屋や、美術展のチラシをくれる書店。帰り道のコンビニで買うアイス。

けれど、この町には「何もない」。

コンビニに行くにも、自転車で四十分。買えるものも決まっていて、刺激なんてどこにもなかった。

漁港を出ていく小舟。堤防の先の灯台。洗濯物を干すおばさん。風に揺れる網。

そんな、どうでもいい風景を、ただ描き続けていた。


ただの落書きだ。暇つぶし。

本気で絵をやりたいわけじゃない――


父さんはそんなこと絶対に許さない。



僕はノートを閉じて、立ち上がる。

練習着に着替えて、日直のノートを脇に抱え、ゆっくり教室を出た。


廊下に出ると、潮風の匂いがした。

港町の夕方は、決まって風が強い。磯の生臭さと草の青さが入り混じったような、何とも言えない空気。何の変哲もない放課後。



数学の時間。

ノートには数式じゃなく、また太田先生の顔を描いていた。


「これは三平方の定理な、ちゃんと覚えとけよー」


そう言ってチョークを走らせる先生の横顔を、僕はじっと見つめていた。

白いシャツの袖から覗く前腕。

人差し指と親指でチョークを持つ指先の形。

それが線になって、影になって、僕のノートの中に先生の姿が浮かび上がっていく。


不意に、目が合った。


先生はそのまま、何も言わずに視線を逸らした。

注意されると思ったのに、そうじゃなかった。

むしろ――ほんのわずかに笑ったように見えた。


僕の中で何かがざわり、と音を立てた。



放課後、級長の仕事を終えてからグラウンドに行くと、部活はもう始まっていた。

ノックの音、ボールがミットに吸い込まれる音、誰かの笑い声。

いつもの風景。

けれど僕は、なぜか落ち着かなかった。


「遅かったな」


背中から声をかけられて振り向くと、太田先生がキャップをかぶって立っていた。

少しだけ汗をかいていて、髪の毛が額に張りついていた。

それを、無意識に目で追ってしまう。


「アップの相手、俺がするわ。こっち来い」


そう言って、先生がボールを放った。

僕はグローブをはめながら、ゆっくりと歩いていく。



キャッチボールは、不思議だ。

距離を取りながら、お互いのリズムに身体を合わせる。

ただそれだけなのに、呼吸が合うと、妙に心が落ち着く。


先生は軽く投げてきた。

ふわりとした球。取りやすい角度。

ああ、やさしい人なんだな――と、そんなことを考えていた。


「なあ、真木。お前、絵描くんだな」


ボールが返ってくると同時に、ぽつりと投げかけられた言葉に、僕の胸が跳ねた。


「……見てたんですか」


「授業中にな。お前、わりと集中してるタイプだと思ってたけど、ちょっと意外だった」


僕は気まずそうに目をそらした。


「……あれ、ただの落書きですよ。暇つぶしです」


「いや、めちゃくちゃ上手かったぞ」


あっけらかんと褒められて、僕はうろたえた。


「ちょ、やめてください。からかわないでくださいよ……」


「からかってないって。俺、ああいうの好きなんだよ。人の顔って描くの難しいだろ?」


先生の声が穏やかで、妙に本気に聞こえた。


そのとき、不意にボールを取り損ねて、僕の胸に当たった。


「いっ……!」


「すまん! 大丈夫か?」


先生が駆け寄ってくる。僕は大げさに「いてて」と胸を押さえてみせた。


「ほら、こっち来い。アイシングしとけ」



グラウンドの隅にあるベンチで、先生は僕の胸に冷えた水のペットボトルを当ててくれた。


「悪かったな。手加減したつもりだったんだけど」


「いえ……不注意でした」


黙ってると、遠くで声がする。

「ラスト一本いきまーす!」

太陽はもう傾いて、白線の影が長く伸びていた。


「……あの、先生」


「ん?」


「俺が絵描いてるの、気持ち悪くなかったですか?」


先生は少しだけ笑って、肩をすくめた。


「真面目に描いてたろ。なら、別にいいよ」


「普通の先生なら怒ると思いますけど」


「俺、そんな“普通の先生”じゃないからな」


その声に、ふいに胸がきゅっとなる。

大人びた口ぶり。冗談のようで、どこか真剣で。

ふだんより少しだけ近くに感じた。


「真木、進路希望調査票、出したか?」


「……まだです」


「美術、やりたいと思ったりは?」


僕は思わず先生の顔を見た。

あの白い光の教室でスケッチしていた先生が、僕に問いかける。


「知ってますよね。俺、スポーツ推薦でここ来てるって。……野球やるための学校です」


「でも、やりたいのは?」


その問いに、すぐ答えられなかった。

答えたら、何かが壊れそうな気がしたから。


「……考えたこと、ないです」


そのあと、僕はゆっくりと立ち上がり、グローブを拾って練習に戻った。


ベンチに残された冷えたペットボトルだけが、まだ僕の胸の熱を冷ましていた。

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