ニート・ビーチ ―赤髪の妖怪は、俺の背中を押してくれた―
2v22
第1話
目覚まし時計は今日も鳴らない。というか、置いてすらいない。目覚めたら昼、寝たら夜。そんな日々を繰り返してもう何年になるだろうか。
俺の名前はクニハル。アラサー無職、実家暮らし歴=年齢、職歴ゼロ、恋愛もゼロ。いや、ゼロというより開始すらしていないというべきか。童の貞だよ。むしろもう信仰ってレベル。
母ちゃんが作ってくれる冷やしそうめんをかっ込んで、扇風機の前で深くうなずく。
『働かないで食う飯はうまい』――これが俺の人生で唯一胸を張って言える信条だ。
予定はない。いや、俺の人生には予定表がない。でも体は勝手に動く。サンダルを突っかけて海へ向かう。片道十分、徒歩のみ許された巡礼路だ。
今日の海も青くてバカみたいにまぶしい。観光客がちらほら。カップル、ファミリー、パリピ、あと多分SNS用に自撮りしてる人。誰も俺に興味はないし、俺も誰にも関与しない。ただただ砂浜に座って、ぼーっと波と時間を眺める。
――と、潮風に混じって聞き慣れた声が投げかけられる。
「おっせーよクニハル。今日は5分も待ったぞ?」
現れたのは赤い髪に素足の子どもサイズの
「時計持ってねーだろお前」
「時間は魂で感じ取るんだよ、ニートくん」
「魂も労働意欲もすり減るようなこと言うな」
「てかさあ、今日もビーチで無職満喫観察か?お前ここに座ってる姿、もはやベンチの一部みたいだよ」
「自然に還る準備はできてる」
「それは悟りじゃなくて諦めって言うんだよ、クニハル」
キジムナーは俺の隣に腰を下ろして、小さな手で砂を掬い上げる。その仕草がやけに人間臭くて、最初の頃は違和感があった。今では慣れたけど。
「なあクニハル、お前さ、本当に働く気ないの?」
「ないね。っていうか、働くって何?」
「は?お前、三十超えてそれ?」
「三十は超えてない。まだ二十九だ」
「二十九で無職って、もう詰んでない?」
キジムナーの言葉は容赦ない。でも、それが心地よかったりもする。家族以外で、こんなに率直に話せる相手なんて他にいないから。
「詰んでるって言うけどさ、俺は結構満足してるよ。毎日ストレスフリーだし、好きなときに寝て、好きなときに起きて、好きなときに海に来る。これって贅沢じゃね?」
「それ、贅沢っていうより、ただの現実逃避だろ」
「現実から逃避して何が悪い。現実なんてクソみたいなもんじゃん」
キジムナーは大きくため息をつく。まるで人間のおっさんみたいだ。
「でもさ、お前の親、何も言わないの?」
「最初は色々言われたよ。働けば?とか、このままじゃダメよ、とか。でも最近は諦めたっぽい。母ちゃんが、この子はこの子なりの人生があるのかも、とか言い出して。親父も、まあ元気ならいいか、って感じ」
「それ、優しいのか諦めなのか微妙だな」
「どっちでもいいよ。俺は楽だから」
波が寄せて返して、また寄せて返す。その繰り返しを見ていると、なんだか催眠術にかかったみたいにぼんやりしてくる。時間の感覚がなくなって、自分がここにいるのかどうかもわからなくなる。
「クニハル、お前って将来のこと考えないの?」
「将来?明日のことすら考えてねーよ」
「親が死んだらどうすんの?」
「その時考える」
「お前が病気になったら?」
「その時考える」
「お前が死ぬ時は?」
「死んだら考える必要ないじゃん」
キジムナーは呆れたような、感心したような顔をする。
「お前、ある意味で悟ってるよな」
「悟りじゃない。ただの思考停止」
「同じことじゃん」
「違うよ。悟りは意識的だけど、思考停止は無意識的だろ」
「哲学者かよ、お前」
日が傾き始めて観光客たちがぽつぽつと帰っていく。夕方の海は昼間とは違う顔を見せる。オレンジ色の光が波に反射して、なんだかロマンチックだ。恋人同士で見たら、きっと素敵なんだろうな。
「なあキジムナー、お前はなんで俺と話すんだ?」
「は?急にどうした?」
「いや、ふと思っただけ。お前、妖怪だろ?もっと他にやることあるんじゃないの?」
キジムナーは少し考えてから答える。
「うーん、俺はここが気に入ってるんだよ。それに、お前みたいなやつと話すの結構面白いし」
「俺みたいなやつって?」
「普通じゃないじゃん。世間の常識とかどうでもいいって感じで生きてるし。なんか、自由っていうか」
「自由っていうか、ただのダメ人間だろ」
「ダメ人間かもしれないけど、でも正直だよね。建前とか嘘とかなくて」
キジムナーの言葉が、なんだか胸にしみる。誰かに正直って言われたの、久しぶりだ。
「お前さ、妖怪なのに人間のこと詳しいよな」
「長く生きてるからね。色んな人間見てきたよ。働いて働いて疲れ果てる人、恋愛で悩む人、将来を不安がる人。みんな大変そうだった」
「それで、俺はどう見える?」
「お前は……うーん、なんていうか、時間が止まってる感じ?みんな前に進もうとしてるのに、お前だけその場でじっとしてる」
「それって、いいこと?悪いこと?」
「どっちでもないんじゃない?ただ、お前らしいっていうか」
星がちらほら見え始めた。そろそろ帰る時間だ。母ちゃんが夕飯の準備をしてるころだろう。今日は何だろう。カレーがいいな。
「そろそろ帰るか」
「おう。また明日?」
「多分ね」
「多分って何だよ。ちゃんと来いよ」
「来るよ、きっと。他に行くところもないし」
「それは理由になってない」
キジムナーは立ち上がって砂を払う。小さな体に大きな影ができる。
「じゃあな、クニハル。明日も退屈な話、聞かせてくれよ」
「お前も退屈な話しかしないじゃん」
「お互い様だな」
キジムナーは波の方へ歩いて行って気がつくと姿が見えなくなっている。いつものことだ。俺もサンダルを履いて家路につく。
空は薄紫色に染まって、街の明かりがぽつぽつと灯り始める。コンビニの明かり、家の窓の明かり、街灯の明かり。みんな、それぞれの夜を始めようとしている。
俺の夜は、いつものようにテレビを見て、ネットを見て、気がついたら寝てるという、何の変哲もない夜だ。でもそれでいい。明日もまた海に行って、キジムナーと話して、何も決めないで家に帰る。
太陽は高く、潮風はぬるく、俺のやる気は今日も波打ち際に置いてきた。それでも――いや、それだからこそ今日も俺はここに座り、キジムナーとどうでもいい話を交わす。
働かなくても息はできる。社会に混ざれなくても海は誰にも文句を言わない。それに、こうしているとたまに何かになれそうな気すらしてくるんだよな。
きっと明日も、俺はここにいる。
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