第7話ベビーカー 前編
雨の降りしきる裏路地に、そのベビーカーはあった。
既に交通規制がされ、周囲に人影はない。
その通りの、角一つ隔てた所に二人は身を潜めていた。
「……怪異、来ますかね」
雨に煙るベビーカーに目を据えながら揺月は言った。雨の降る日は夕暮れは訪れないのが通例だ。
「来ると思うんだよねぇ」
櫻の言葉にまたベビーカーに目を据え直す。櫻の勘が外れることはまずない。ベビーカーからは赤ん坊の姿をした怪異が現われる、という報告があった。
そのまま二人は黙った。雨の音がする。頭が重い。思えばここ数日まともに眠っていなかった。揺月はベビーカーを見る視界が徐々にぐらつき始めるのを覚えた。
「来た。3,2,1……」
櫻のカウントダウンと共に軽い落下感とともに視界がどぶりと夕暮れの世界に染まる。
それでようやく揺月は視界をぐらつかせていた眠気から我に返って、
「……来た! 出るよ!」
声と共に機敏な動きでベビーカーに向かった櫻を見送って、
――出遅れた。
そう悟るのと同時に角から飛び出そうとして自分の靴につまずいた。疲労が足を引っ張った。
「……櫻さん!!」
気付くと櫻の姿はベビーカーから沸くように現われた無数の赤子にたかられていた。
慌てて駆けつけた揺月がその赤子の一つを引き剥がすと、その赤子の腹からは六対の手足が節足動物のようにぞろりと生えていた。
そのおぞましさにぞっとして赤子を抜いた刀で斬った。斬られた赤子は血も流さずに動かなくなった。そのまま次の赤子を佐倉から引き剥がして斬る。そしてその次も――
「揺月!ベビーカー!!」
櫻の声にはっと我に返る。ベビーカーからは相も変わらず異形の赤子が湧き出している。揺月は駆け寄るとベビーカーを切りつけた。
一撃で斬れると思ったベビーカーは思いのほか手強かった。何度も、最後には刀で殴りつけるようにして地に沈めた。最後に顔を出した赤子は嗤っているように見えた。
ベビーカーが消えると無数の赤子の姿も消えた。
――負けた。
勝ったにも関わらず、そう思った。今日の俺は負けた。
「夕暮れから戻るよ。3,2,1……」
肩で息をきらす揺月の後ろで櫻がそう言って、世界が元に戻った。どす朱い世界を抜けてふわりと、柔らかい夜の色彩が戻って来る。
「揺月ちゃん。この後話あるから、時間空けて」
本来ならすぐに家に帰って溜まっている家事と、精神を病んでいる母親の介護をしなければならない。しかしいつになく固い櫻の声に、揺月は従うしかなかった。
*
「――お母さん大丈夫だった?」
食堂の外で母親に遅くなると電話を入れて戻ると、櫻が言った。
「ええ、まあ」
言葉を濁して櫻の向かいの席に座る。
夜でも仕事をする職員の多い支部では、食堂は深夜まで開いている。皓々と電気の灯った広い食堂内は、ちょうど夕食時が終わったところということもあって空いていた。
「疲れた顔してるよ。とりあえず食べて」
いただきます、と小さく声をかけてテーブルの上に用意されていた温かい蕎麦とおにぎりを食べる。向かいで同じように食べている櫻に先ほどの自分の仕事のミスを謝りたいのだが、今更どう謝っていいかも分からない。
味のしない食事を終えてごちそうさまでした、と呟くと、揺月が食べ終わるのを待っていたように櫻が口を開いた。
「お母さんと上手く行ってないの?」 いきなり核心をつかれて返事に窮した。
「上手く行ってないって言うか……」
そもそも母親は揺月が怪異と関わる事を嫌っていた。異常に恐れていたと言ってもいい。怪異で夫と息子を一度に亡くしたのだから当然だろう。父と兄は一年前怪異に襲われたきり、遺体すら見つかっていない。そのせいで神経を病み、今では精神科に通っている。
そんな母に、夕暮れ怪異対策支部で怪異と戦う事になった、などととても言えたものではなく、割の良い仕事が見つかった、と言って隠していたのだが。
「まぁバレるよね」
話を聞いていた櫻がため息をついた。揺月は黙って頷く。
「支部からの郵便物を見られちゃって。それからは毎日戦争です」
日々何かがとり憑いたかのように支部を辞めろ辞めろと繰り返す。泣く、喚く、しまいには支部に勝手に電話をかけようとする。
まさに戦争といった体で揺月は最後にゆっくり眠ったのがいつか思い出せなかった。
「うーん……」
話を聞いた櫻は文字通り頭を抱えて唸った。
「お母さんの気持ちも分かるんだけどなぁ……俺としては揺月にここに居てほしいし……俺が行って話してみよっか?」
「それは……無理だと思います」
揺月は慎重に答えた。このところ母は特に興奮しやすくなっている。他人と話ができると思えない。
「……そっか。俺も家の事にあんまり口出せないけど……揺月はどうしたいの」
真っ直ぐな目で尋ねられて、揺月はきっぱりと答えた。
「俺は、辞めたくないです。……でも母親にどうしたら分かって貰えるのか……このままじゃあんまり親不孝だし、そもそも生活が立ちゆかないし。……今日も櫻さんに迷惑かけちゃって。このままじゃ駄目だって分かってはいるんですけど……」
口にすると次々と不安が沸いて来る。それを一つ一つ頷いて聞いていた櫻がふと口を開いた。
「……お母さんの生活のケアってだけなら、方法はあるんだけど」
どこか含みのある口調に揺月は櫻を見た。櫻は一度視線をさまよわせて、また揺月を見た。
「……支部で働く職員は夕暮れ怪異の被害者とか、その親族が多いんだよ」
「……はい」
真意が掴めないながら頷く。
「で、夕闇怪異で精神を痛めちゃった人向けのグループホームがあってね。支部職員の関係者は優先的に入れるんだ。その代わりに職員は支部の寮に入らなきゃなんだけど」
「グループ……ホーム」
揺月は櫻の言葉を反芻した。グループホームという言葉は聞いたことがあるが、どんな所かは想像がつかなかった。
「それって、あの、どういう」
問い返した揺月に櫻はゆっくりと答えた。
「いや、揺月がもし良かったらって話なんだけど。そのグループホームって特殊で、俺も行ったことあるけど、医師と看護師がついてるビジネスホテルみたいなところ。グループカウンセリングとかあったりして。精神の保養には良いと思う。問題は、揺月がどうしたいかなんだけど」
そこで言葉を切って、櫻は揺月を見詰めた。揺月は黙って俯いた。
母親を安心できるところに預けて仕事に専念したい気持ちは確かにある。しかし、それで良いのか。すぐには答えが出ない。
「……難しいよね」
揺月の考えを読んだように櫻が言う。
「でも、この仕事は命がかかってる。特に揺月みたいなアタッカーは。今日みたいな仕事してたらいつか命落とすよ」
いつになく鋭い口調に見ると、櫻は真剣な眼差しで揺月を見ていた。少しして、視線をそらしたのは揺月の方だった。
「……考えてみます」
ぽつりと行った揺月の言葉は、やけに頼りなく響いた。
*
帰り道を歩く途中、一人考えた。
……櫻さん、怒ってたな。
怒っているだろう。怒って当然だ。家族のことにかまけて、仕事を疎かにしているのは自分なのだから。
「……グループホーム、か」
考えてみるべきだろう。母親の為にも、櫻とこの先仕事を続けていく為にも。
考えが決まると、揺月は足取りを速めて自宅へと向かった。
*
翌朝の揺月は、見事な寝不足だった。
昨日、自宅に帰った後、いつもの様に母親と口論になった。
そこで、言ってしまったのだ。母親に、グループホームに入らないかと。
母親は途端に口を閉ざして、能面のような無表情で黙っていた。
そして、そのまま、夜明けまで口を利かなかった。
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