朱く沈む街で、相棒と怪異を追う
双葉さかえ
第1話 夜明け前
午後六時。
外出の身支度をととのえた揺月は、薄暗くなった窓の外を見てため息をついた。窓の外はまだほのかに青白い。
今日は「夕暮れ」は起こらないらしい。
夕暮れが起こるともっと世界が朱に染まる。スマホの予報も夕暮れの予兆は告げていなかった。今日はだめなのだろう。
三間しかないボロアパートを出る途中、揺月は玄関でもう一度中を振り返った。どうやら母親は寝ているらしい。黒いスプリングジャケットのポケットにナイフが入っているかもう一度確認する。なんの変哲もないサバイバルナイフだが、揺月にとっては大切な、怪異を狩る武器だった。
夕暮れの起こっていない世界は薄明るく清浄だ。その世界の角を三つ曲がってバイト先である中華料理屋の通りに出た時、異変が起こった。
瞬きする間に、世界が、朱く染まった。
単なる夕焼けではない。もっと朱い。
空も、地面も、建物も朱い色の中に深く落ちている。
「夕暮れ」だ。
揺月はとっさに自販機の影に姿を隠した。夕暮れは今日は来ないという、怪異対策本部が出している予報が外れたのだ。あの時と同じだ。
予報が外れる事は最近ではほとんどない。それでも街の住民達は用心して門戸を閉ざしている。この時間に外にいる人間は居なかった。
朱く染まった世界の中で、自販機や電柱の影を縫って歩く。手の中には護身用のナイフがあった。
ふらふらと何かを探して彷徨ううちに、視界の隅に影がよぎった。
――怪異だ。
身体は自然に動いた。俊敏な動きで逃れるように動く影を追い詰めて行く。
やがて追い詰めたのは老婆の姿をした「怪異」だった。
一見すると普通の老婆に見える。しかしその額からは、ねじくれた二本の角が生えていた。目は白目がなく虚ろに穴が空いたようにぽっかりと黒い。
ナイフを手にした揺月を見ると、老婆は歯の無い口を開けて笑った。そして曲がった腰の後ろに隠していた出刃包丁を取り出すとそのまま揺月に斬りかかって来た。
揺月は軽く身を引いて包丁を躱すと、体勢を崩した老婆に体当たりするようにその腹深くにナイフを押し込んだ。ぐにゃりとした手応えがして、老婆は笑ったまま消えた。
気付くとすっかり暗くなった小路に一人で立っていた。頭上では桜が咲いている。父と兄が怪異に奪われた、あの時と同じように。
*
バイトには一時間の遅刻だった。
「別にお前のこと当てにしてないよ。もう」
バイト先の小さな中華料理屋の店長はくたびれた顔を顰めてそう言った。
「遅刻、欠勤、いつもだもんな。次の補充に仕事教えたらお前はもう辞めていいから」
バイト先の中華料理屋はいつもバイト募集の張り紙をしている。だが早々に欠員の補充が入らないことを揺月は知っていた。時給が安すぎるのだ。それに仕事も楽ではない。
遅刻や欠勤があってもクビにされないこと。それが揺月がこの職場に勤めている理由だった。
「……すみませんでした」
しかし、確かに遅刻は悪い事だ。揺月は謝罪して店長の元を後にした。店を出たのは深夜の零時を過ぎていた。
*
くたくたの身体でボロアパートに帰り着くと、部屋の明かりはすでに落ちて真っ暗だった。奥で寝ている母親を起こさないように足音を忍ばせて狭い台所に入る。すると奥の部屋で明かりが点く気配がした。母親が寝ている部屋だ。
無意識に母親と顔を合わせないように台所を去ろうとするが、レンジで温めているコンビニの弁当はまだ温まる気配がない。仕方なく振り返ると襖が開いて、青白い顔色の母親が顔を見せた。
「……今帰ったの?柚ちゃん」
柚(ゆう)というのは揺月の下の名前だ。母親は細い声で続けた。
「晩ご飯買ってきた?……作ってあげられなくてごめんね」
柚木は心の中でため息をついた。そんな事気にしなくていいのに。母親は最近また少しやつれたような気がする。
「大丈夫だよ。食べたら寝るから。……気にしないで」
揺月はレンジから温めの終わった弁当を取り出す仕草で母親から顔を背けた。母親はまだ少し名残惜しいような気配を残していたが、揺月がもうそちらに目を向けないのを悟ると襖の向こうに姿を消した。
台所に残された揺月は小さくため息をついて部屋に戻ると、一人弁当を食べた。
揺月とて母親が嫌いな訳ではないのだ。ただあの一件以来顔を合わせづらかった。母親が心を病むきっかけになった事件。その事件以来、父と兄は帰らぬ人となった。事件からたった一人生還した、揺月柚を残して。
*
――十年ほど前に日本から発生し、今や世界を揺るがせている「夕暮れ」と呼ばれる現象に父と兄が飲み込まれたのは去年の春だった。
日の沈む時、世界が「夕暮れ」に染まると、人ならざる「怪異」が訪れ、人を襲う。
それが「夕暮れ」と呼ばれているものだ。
「夕暮れ」が訪れるようになった原因は、あるときに地球が時空からずれたからとも言われているが、実際「夕暮れ」に関しての研究は殆ど進んでおらず、何も明らかになっていないのが現状だった。分かっているのは日没時に外に出ると危険だということだ。
その「夕暮れ」に揺月たち親子が巻き込まれたのは去年の春の事だ。
揺月と父と兄、三人で桜を見に行った帰り道に少女の姿をした「怪異」に襲われた。
まだ小学生ほどの少女が、白いワンピース姿に麦わら帽を被って、道ばたにしゃがみ込んでいた。人間の迷子だと心配した父が声をかけて、少女が顔を上げた時、突然父が倒れた。駆け寄った兄も倒れた。自分も駆け寄ろうとして――あとは何も覚えていない。
それ以来父と兄は消えた。気付くと揺月は暗闇の中一人立っていた。父も兄も、白いワンピースの少女も居なくなっていて、それきり二度と見つからなかった。母は心を病み体調を崩した。
当時高校生だった揺月は学校を辞め、アルバイトをして家計を支える事となった。
揺月がバイト先から毎月持ち帰る僅かな賃金。
それが今の、床に伏せりがちな母親と揺月のボロアパートを支える収入全てだった。
「……なんとかしないと……」
暗がりの中、揺月が寝床で呟く。その手の中には生前の兄がくれたお守りがあった。どこかの雑貨屋で買ったという小さな水晶の結晶だ。揺月はそれをお守りとして大切にしていた。
「兄さんならどうする?……兄さん……」
揺月は水晶を片手に握ったまま疲労に吸い込まれるように眠りについた。
*
――桜が散っていた。
黒い夜空にひらり、ひらりと桜の花弁が散っている。それを揺月は見上げている。
「綺麗だな」
兄が温かい手を揺月の肩に置いた。揺月は無言で頷く。
「綺麗だなぁ」
父がのんびりと言って前を歩いて行く。兄がその後に続く。自分もその後を追おうとして――立ち止まった。
いけない。その先に行ってはいけない。
気付くと辺りが朱に染まっていた。「夕暮れ現象」が来たのだ。
柚木は前方の二人に向かって叫んだ。何と叫んだかは分からない。
父と兄の姿がばたばたと倒れた。そのまま動かない。
朱い世界に桜だけが切り取られたように白く咲いている。
その向こう側に居るのは――白いワンピースの少女。
夢から覚めた揺月の体は汗でぐっしょりと濡れていた。
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