第25章 調律の狂った世界
天文台からの帰り道、車の中は、行きとは、また違う種類の、重い沈黙に支配されていた。
寛は、羽依里の肩に、自分のジャケットをかけてやった。彼女は、眠っているのか、起きているのか、ただ、後部座席で、人形のように、ぐったりと窓の外を眺めている。その瞳には、焦点が合っていないように見えた。
聖真は、ノートパソコンを開くこともなく、ただ、暗い窓の外を、流れていく景色を、見つめていた。プラネタリウムでの一件の後、彼の中に、何かが、決定的に、変わってしまった。論理という、絶対的な物差しが、折れてしまったのだ。目の前で、計算不能な、人間の精神という奇跡が、神の領域に触れるのを、目撃してしまったのだから。
チームの、それぞれの役割は、終わった。
運び屋も、観測者も、プランナーも、そして、翻訳者も。
後に残されたのは、あまりに巨大すぎる体験を、共有してしまった、ただの三人の、寄る辺ない人間だけだった。
亮子に、衛星電話で、事の次第を、かいつまんで報告すると、彼女は、電話の向こうで、呆れたように、ため息をついた。
『神様に、子守唄を歌ってあげたら、歌い手が、壊れちゃった、ってわけね。おあつらえ向きの、結末じゃないの』
その、いつも通りの皮肉の中に、ほんのかすかな、心配の色が混じっているのを、羽依-里は、感じ取った。
『……私の店に、連れてきなさい。魂の、置き場所をなくした人間を、地に繋ぎ止めるガラクタなら、いくつか、心当たりがあるから』
車が、山を下り、高速道路を走り、やがて、見慣れた街の、光の中へと、戻ってきた。
その瞬間、羽依里の体が、びくりと、大きく震えた。
「……うるさい」
「え?」
「……音が、うるさい……」
車窓の外、雑踏を行き交う、人々。ネオンの看板。車のヘッドライト。
それらが、これまでは、ただの風景として、見えていた。
だが、今の、羽依里には、違う。
すべての人間が、すべての物質が、固有の、音を、発しているのが、わかるのだ。
それは、声や、物音ではない。もっと、根源的な、存在そのものの、周波数。魂の、共振音。
そして、その、無数の音が、てんでんばらばらに、不協和音を奏でながら、洪水のように、彼女の意識へと、流れ込んでくる。
調律の狂った、オーケストラ。
それが、羽依里の、新しい、世界の姿だった。
天文台で、自らの魂を、楽器として、神の歌を奏でた、代償。
彼女の感受性は、世界の、すべての存在の、魂のハミングを、拾ってしまうほどに、鋭敏に、そして、繊細に、なってしまっていたのだ。
車は、羽依里のアパートでも、寛の家でもなく、亮子の店『FOUND』の前で、止まった。
羽依里は、ぼんやりとした目で、その、見慣れた店構えを見つめる。
だが、その目には、もう、以前と同じようには、映っていなかった。
店の奥から、無数の、か細い、しかし、澄んだ音色が、聞こえてくる。
一つ一つの、古道具たちが、それぞれに秘めた、物語と、記憶を、静かに、歌っているのだ。
それは、街のノイズとは違う、調和のとれた、美しい、アンサンブルだった。
外の、混沌とした世界と、この店の中の、静かな調和。
その境界線に立ち、羽依里は、自分が、もう、以前の自分には、戻れないことを、悟った。
パズルは、解かれた。
だが、その代わりに、羽依里自身が、この世界の、新しい、そして、誰にも、解き方のわからない、パズルになってしまったのだ。
その、あまりに、重すぎる現実に、彼女は、ただ、静かに、耐えるしかなかった。
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