第14章 偽りの星空の下で
郷土資料館での出来事を恵子に報告すると、彼女は予想通り、目を輝かせた。
「感情の残留思念……! それも、公的な記録用紙に定着するほどの強い恐怖。素晴らしいわ」
恵子は、羽依里の感覚的な情報を、即座に自身のデータベースに落とし込もうと、数式や仮説をモニターに打ち込み始めた。
「その時の気圧、湿度、インクの化学成分と紙のパルプの材質……それらのデータがあれば、感情が物質に定着するメカニズムを、理論的に証明できるかもしれない。これは、大発見よ」
恵子にとって、恐怖という感情すらも、解き明かすべき美しい数式の一部なのだ。その純粋すぎる探究心に、羽依里が感心とも呆れともつかない気持ちでいると、背後のドアが、音もなく開いた。
長谷聖真だった。彼は、まるで最初からそこにいたかのように、部屋の空気に溶け込んでいる。
「間宮に、接触したそうだな」
聖真の言葉には、問い詰めるような響きはなかった。ただ、事実を確認しているだけ。寛が、肩をすくめる。
「人聞きの悪い言い方すんなよ。郷土史のお勉強だって言ったろ」
「恐怖は、非論理的な現象に直面した時の、脳の正常な防御反応だ」聖真は、寛の軽口を無視して、話を続けた。「資料室の作業員が見たものは、当時の物理法則では説明できない何かだった。そして間宮は、その非論理的な『バグ』を、公的記録という論理的なシステムの中に封印することで、町の秩序を保とうとしている。彼は、システムの番犬だよ」
まどろっこしい、聖真一流の言い方だった。
「で、結局どうすりゃいいんだよ」寛が、少し苛立ったように言った。「その番犬を、力ずくで叩き起こすのか?」
「無駄だ」と聖真は即答した。「番犬は、自分の守るべきシステム、つまり町の平穏に、直接的な脅威が迫らない限り、決して本気では動かない。我々がすべきことは、彼に『選択』を迫ることだ」
選択。その言葉に、羽依里は背筋が冷たくなるのを感じた。
聖真は、どこからか取り出した一枚の古い地図を、テーブルの上に広げた。それは、あの事件があった頃の、町の地図だった。彼は、赤いペンで、三つの場所に印をつけた。
一つは、恵子が観測した、異常なエネルギーの発生源。
一つは、羽依里が恐怖の感情を読み取った、水道管の工事現場。
そして、三つ目の印は、誰も知らない場所を指していた。
「これは、『コア』の起動シーケンスにおける、もう一つの接点(ノード)の、論理的な予測位置だ」
その場所は、古い教会の跡地だった。そして、そこには現在、市立のプラネタリウムが建っている。
「間宮を、ここに連れて行く」
聖真が、作戦の概要を告げた。
「偽りの星空の下で、彼が心の奥底に封印した、本物の『恐怖』の記憶を揺さぶる。寛、お前が適当な理由をつけて、彼を誘い出せ。恵子は、周辺の環境データをリアルタイムでモニターし、異常があればすぐに知らせろ。そして……」
聖真の視線が、羽依里に向けられた。
「君は、その場で間宮の感情の揺らぎを『翻訳』する。彼が、どの星を見て、何を思い出すのか。そのトリガーとなる情報を、俺に伝えろ」
それは、あまりに大胆で、緻密で、そして、悪意に満ちた作戦のようにも思えた。
間宮の心の傷を、白日の下に晒す行為だ。町の眠りを、意図的に妨げる行為だ。
羽依里は、自分が、大きな犯罪計画に加担させられているような、危険な高揚感と罪悪感に襲われた。これまで、受動的に謎に触れてきた自分が、初めて、能動的に誰かの心を「仕掛け」て、こじ開ける側になる。
「面白そうじゃねえか」寛が、不敵な笑みを浮かべて言った。「やろうぜ、その天体観測とやらを」
寛のその一言で、すべてが決まった。
羽依里は、ただ、頷くことしかできなかった。
偽りの星空の下で、真実を炙り出す。その言葉の響きが、美しいけれども、どこか不吉な予言のように、彼女の心に重く、そして深く、刻み込まれた。
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