第8章 本当の値段

寛からのメッセージに、羽依里は結局、『見えました』とだけ返信した。それ以上の言葉が見つからなかった。絵文字も、感嘆符もつけられない。あの紫色の閃光が見せた世界の断面は、あまりに個人的で、静かで、誰かと安易に分かち合えるようなものではない気がしたのだ。


あの日以来、羽依里の世界を見る目は、不可逆的に変わってしまった。道端の石ころにも、風に揺れる木の葉にも、これまで気づかなかった物語や感情の気配を感じるようになった。世界の解像度が上がった、というよりも、ノイズだと思っていたものが、実は意味のある信号だったと知ってしまったような感覚。それは、日常を豊かに彩ることもあれば、ひどく疲れさせることもあった。


もっと知りたい。彼らのことを。彼らの見ている世界のことを。

その渇望に突き動かされるように、羽依里は、寛がぽつりと漏らした「茂手木さん」という名前を手がかりに、古い商店街の外れにある一軒の店を訪れていた。


店構えは、控えめだった。黒い鉄の枠に大きなガラスがはめ込まれただけの、シンプルなファサード。『FOUND』とだけ、小さな真鍮のプレートに刻まれている。中を覗うと、薄暗い空間に、様々なものが雑然と、しかし、ある種の美意識をもって配置されているのが見えた。


意を決してドアを開けると、カラン、と乾いたベルの音が鳴った。店内は、古い木と、金属と、紙の匂いが混じり合った、独特の香りで満たされていた。それは、骨董屋とも、雑貨屋ともつかない、不思議な空間だった。埃をかぶった地球儀の隣に、作者不明の抽象画が飾られ、その下には、使い古された医療用のメスが、標本のように並べられている。


「何か、お探し?」


声は、店の奥からした。カウンターの向こうから、一人の女性がすっと立ち上がる。背が高く、黒いシルクのシャツをさらりと着こなしていた。切りそろえられたボブヘアと、意志の強そうな瞳。茂手木亮子。彼女がこの店の主だと、羽依里は直感で理解した。


「あの……」

羽依里が言い淀んでいると、亮子はカウンターに肘をつき、面白そうに羽依里を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。

「あなた、ヒロシの新しいおもちゃ?」


その言葉は、ナイフのように鋭く、しかしどこか楽しげな響きを持っていた。

「……城戸さんを、ご存知なんですか」

「知ってるも何も。あいつは、私のところに定期的にガラクタを持ち込んでは、小遣いを稼いでいくハイエナみたいな男よ」


亮子はそう言うと、ふっと笑った。その笑顔には、長年の付き合いで培われた親しさと、呆れが混じっている。

「ヒロシは空っぽだから、面白いもので自分を満たそうとするの。恵子は、世界をデータにしないと不安で仕方ない臆病者。アルマは……あの男は、ただ世界のバグを見つけては、ほくそ笑んでるだけ。どいつもこいつも、本当に面倒な連中よ」


彼女の口から語られる寛たちの人物評は、辛辣で、それでいて、驚くほど的確だった。この人は、物事の表面を撫でるのではなく、その本質を鷲掴みにするような人なのだ。


亮子の視線が、再び羽依里に注がれる。

「あなたも、そっち側の人間みたいね。その目で、この店にあるものの『本当の値段』がわかるかしら?」


彼女はそう言うと、カウンターの引き出しから、古びた銀のロケットを取り出した。繊細な花の彫刻が施されているが、全体的に黒ずんでいて、チェーンも切れている。値札は、どこにもついていなかった。


「これの価値がわかったら、タダであげる。ヒロシへの手土産にでもしなさい」


試されている。羽依里は、ごくりと喉を鳴らした。これは、亮子からのテストなのだ。


羽依里は、差し出されたロケットを、そっと手のひらに乗せた。ひんやりとした金属の感触。指先から、微かな記憶の断片が流れ込んでくる。パズルボックスの、あの拒絶するような頑なさとは違う。これは、もっと柔らかくて、甘くて、そして切ない質感を持っていた。


「……持ち主は、もういないんですね」

羽依里は、目を閉じたまま呟いた。

「すごく、大切にされてたみたい。毎日、寝る前に、このロケットを開いて……中の写真を見てた。待ってたんですね。ずっと、帰ってこない誰かのことを」


それは、ただの想像ではなかった。ロケットに残された、持ち主の指先の感触、ため息の温度、そして、叶わなかった願いの、淡い光。それらが、羽依里にははっきりと感じられた。


目を開けると、亮子が、少しだけ目を見開いてこちらを見ていた。やがて、その唇の端が、ゆっくりと吊り上がっていく。

「……まあ、及第点ね。持っていきなさい」


彼女は、ロケットを小さな布の袋に入れると、羽依里に手渡した。

「ヒロ-シに伝えといて。『あんたがこの前置いていったガラクタ、いいカモが見つかって、高く売れた』ってね」


その言葉の質感が、紛れもない嘘だと羽依里にはわかった。本当は、寛が持ち込んだものを、彼女は一つも売ったりしていないのだ。ただ、この店の片隅に、大切にしまっている。


羽依里は、新たな「宿題」とも言えるロケットを握りしめ、店を出た。

また一人、この世界に、面白くて、厄介で、そして、どうしようもなく魅力的な人物が増えてしまった。観測所とはまた違う、価値と物語が渦巻く場所。その入口に、自分は今、確かに立っている。もう、引き返すことなど、考えられそうもなかった。

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