第5章 構造の先にあるもの
夜の雑居ビルは、昼間とは違う顔をしていた。眠りについた獣の体内に入り込んでいくような、密やかで、少しだけ危険な匂いがした。羽依里は、自分の意志で、あの錆びた鉄の階段を上っていた。一歩一歩、心臓の音が段差を刻むように響く。もう、誰かに背中を押されたわけじゃない。
灰色のドアを開けると、部屋の空気は前回よりも濃密に感じられた。モニターの光が作り出す人工の星空の下、三つの影がそれぞれの時間を過ごしていた。ソファに寝そべって携帯をいじる寛。観測データと睨めっこする恵子。そして、テーブルの上で、あのパズルボックスを静かに分解している、もう一人の男。
長谷聖真だった。
彼は、羽依里が入ってきたことに気づくと、一瞬だけ視線を上げたが、すぐに手元の作業に戻ってしまった。興味がない、というよりは、彼の集中力が作り出す世界に、羽依里の存在がまだ入り込んでいない、という感じだった。彼の周りだけ、時間がゆっくりと流れているようだった。
「よう。よく来たな」
寛が、ソファから体を起こして手招きする。
「アルマ、紹介するよ。こいつが、浦田羽依里。この箱の気持ちがわかる、不思議ちゃん」
「……やめてよ、そういう言い方」
羽依里が小声で抗議すると、聖真が顔を上げた。整いすぎた顔立ちは、感情の起伏を読み取らせない。
「気持ち、か」彼は、分解した木片の一つをピンセットでつまみ上げながら言った。「俺には、製作者の意図しかわからないが」
「同じことだろ?」
「違うな」聖真は、きっぱりと否定した。「意図は構造に現れる。だが、気持ちは構造の外にあるものだ。この箱の製作者は、解かれることを望んでいない。これはパズルではなく、一種の『封印』だ。開けるという行為自体が、彼の設計思想に反する」
聖真の言葉は、冷たく、客観的だった。だが、それは羽依里がこの箱から感じ取った「開けられたくない」という頑なな意志を、別の言語で的確に翻訳したものでもあった。
「でも、現にアンタは二通りも開け方を見つけたんでしょ? 矛盾してない?」
寛が、面白そうに茶々を入れる。
「欠陥だよ」聖真は、こともなげに言った。「完璧な封印は、この世に存在しない。どんなに強固な意志にも、必ず構造的な歪みや、論理の綻びが生まれる。その『美しい欠陥』を探し出すのが、面白いんじゃないか」
美しい欠陥。その言葉の響きに、羽依里はぞくりとした。この人は、物事の表面ではなく、その裏側にある法則や、綻びを見つけ出すことに、至上の喜びを感じる人間なのだ。
不意に、聖真が羽依里の方へ、小さな木片を滑らせた。それは、複雑な模様が彫り込まれた、パズルボックスの心臓部らしき部品だった。
「君は、これに何を感じる?」
試されている、という感じはしなかった。ただ純粋な、科学者のような知的好奇心。自分にはない感覚器を持つ生き物が、対象物からどんな情報を引き出すのか、観察したいだけなのだ。
羽依里は、おそるおそるその木片に指で触れた。
瞬間、流れ込んできたのは、深い、深い悲しみの色だった。それは、誰かを失った喪失感とは違う。もっと複雑で、ねじれた感情。大切で、忘れたくない。でも、思い出してはいけない。その矛盾した思いが、この小さな木片の中で、固く結晶化しているようだった。
「……誰かを……」羽依里は、言葉を探しながら、ゆっくりと口を開いた。「誰かを、忘れたくないけど……思い出しても、いけない……みたいな……そういう、感じです」
曖昧で、詩的で、非論理的な言葉。だが、それを聞いた瞬間、部屋の空気が変わった。
寛が、ニヤリと口の端を吊り上げた。恵子が、モニターに表示されたグラフの奇妙なスパイクに気づき、目を見開いた。
そして、これまで能面のように無表情だった聖真が、初めて、羽依里のことをまっすぐに見た。彼の黒い瞳の奥に、ほんのかすかな揺らぎが見えた気がした。
「……なるほどな」
彼はそれだけを呟くと、羽依里から木片を受け取り、再びパズルの組み立て作業に戻ってしまった。答えも、解説も、何もない。けれど、確かに、羽依里と聖真の間に、見えない橋が架かったような感覚があった。論理と感覚という、決して交わるはずのない二つの世界が、その一点で触れ合ったのだ。
「ま、今日のところはこんなもんか」
しばらくして、寛が伸びをしながら言った。その一言で、張り詰めていた空気がふっと緩む。彼には、場の空気を支配し、自在に緩急をつける、天性の才能があった。
帰り道は、一人ではなかった。寛が、当然のように「駅まで送る」と言って、隣を歩いていた。夜の道は静かで、二人の足音だけが響いている。
大きな謎が解けたわけじゃない。むしろ、謎は深まった。パズルボックスに込められた、誰かの切ない記憶。それをいとも簡単に見つけ出す、聖真という男の存在。
でも、羽依里は不思議と満たされていた。自分の居場所が、また一つ増えてしまった。そう思った。それは、自分のテリトリーに他人が入り込んでくるような、不安を伴う感覚のはずなのに、今はただ、その抗いがたい引力に身を任せていたい気分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます